FC2ブログ

日本が好きなだけなんだよ

Category : 白人の世界侵略史

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

立ち向かった唯一の有色人種①

                                              人気ブログランキング

立ち向かった唯一の有色人種①

侵略の世界史  ~この500年、白人は世界で何をしてきたか~



関連記事
捕鯨問題とオーストラリアの歴史
日本の戦後社会のカラクリ
500年の歴史スパンで見る大東亜戦争の意義
スペイン・ポルトガルの世界征服①
スペイン・ポルトガルの世界征服②

スペイン・ポルトガルの世界征服③
白人欧米国家による奴隷貿易の真実
アメリカの歴史の真実①
アメリカの歴史の真実②
アメリカの歴史の真実③
英仏蘭によるアジアの植民地支配①
英仏蘭によるアジアの植民地支配②
ヨーロッパ列強によるアフリカ分割
白人侵略の終着点・日本の対応①
白人侵略の終着点・日本の対応②
白人侵略の終着点・日本の対応③


中国、朝鮮に触手を伸ばすロシアとの対立

三方からの侵略勢力と対峙することとなった幕末日本は、江戸時代から蓄えた民力と技術力によって、とりあえずは危機を脱することができた。だが列強は直接日本に手をかけることはなかったものの、中国、満州へと着実にその勢力を伸ばし、日本を取り巻く環境は、いよいよ緊張の度を高めていった。そんな中で起こったのが、日清、日露の戦争である。日清、日露の大勝利は、明治維新の成果が見事に花開いたもので、極東の小国・日本の存在が世界に注目された世界史上の大事件であった。国内的には、明治人の気概がいかんなく発揮され、国民の自信と誇りを高め、国際的には非白人植民地民族を感奮興起させ、白人らには「黄禍論」の不安を与えた。この戦争が世界史の流れを変える出発点になったことは言うまでもない。

清国は、アヘン戦争に敗れ、西側からの列強の分割に屈した。そのハライセに弱い朝鮮を屈従させようと企てた。清は朝鮮を属国と心得、朝鮮の内乱に付けこんで、軍を進めて支配を強化した。日本にとって朝鮮半島は一番近い隣国で、国家防衛の生命線であった。朝鮮の独立を守るために日清戦争が勃発した(1894年)。戦争は予想以上の日本の連戦連勝で、一年足らずで終わった。下関講和条約が結ばれ(1895年)、清は、

1、朝鮮の独立を認める
2、遼東半島、台湾、澎湖島を日本に譲る
3、賠償金三億円を支払う

ことを認めた。
しかし、その六日後に、満州進出に野望を持つロシアは、ドイツ、フランスと組んで遼東半島を清に返還するように迫った。「三国干渉」である。当時の日本は三列強と戦う力がなかったので、涙を飲んで返した。

清国に恩を売ったロシアは厚かましくも、直ちに遼東半島を清から譲り受け、旅順に大要塞を築いた。このロシアの不埒な仕打ちに、日本ではいつか仇を討つべしと「臥薪嘗胆」という言葉が流行した。かつては「眠れるシシ」と恐れられていた清国が、日本に敗れるや「眠れるブタ」と軽視され、列強の中国侵略は一段と激しくなった。すなわち山東省をドイツに(1898年)、威海衛を英国に(1898年)、広州湾はフランスに(1899年)租借され、中国はずたずたに分割されてしまった。

列強の侵略は、中国民権運動を刺激して、ついに1900年「扶清滅洋」をかかげる義和団の運動が起こった。列強は、居留民を守るために軍隊を派遣し、北清事変となった。ところが事変が鎮圧された後も、ロシア軍は満州に居座り、続く朝鮮まで勢力を伸ばしてきた。日本はロシアに対抗するため日英同盟を結び、日本の生命線でもある朝鮮半島を救うため、ロシアに宣戦布告した(1904)。積年の臥薪嘗胆の怨みが、ついに爆発したのである。

日露戦争は人類解放の出発点

陸軍は満州に出兵し、ロシアの極東の大要塞・旅順の、難攻不落を誇った二百三高地を、乃木大将は5万9000人もの死傷者を出しながら陥落させ、続く奉天大会戦に勝利した。難攻不落の二百三高地がなかなか落ちなかった折、乃木は北海道・旭川に新しく生まれた第七師団の精鋭の増援を頼み、最後の突撃を試みた。203という数字を割れる数は7しかなかったからである。203を7で割れば29である。二重の苦しみをこうむると必ず割れるという語呂合わせである。

この戦いで乃木大将は最愛の勝典、保典の二人の息子を戦死させてしまった。二重の苦であった。大将にとって203(ニレイサン)は、二人の息子がねむる二霊山だったのである。さてロシアは陸の劣勢を挽回すべく、西欧で最強のバルチック艦隊を、極東に回航させることになった。ここに世界中がかたずを飲んで見守った日露戦争のハイライト、日本海海戦が幕を切って落とされた。

日本の連合艦隊司令長官・東郷平八郎、ロシアの司令長官にロジェストヴェンスキー。味方は戦艦4、巡洋艦20、駆逐艦21、その他で47隻。敵は戦艦11、駆逐艦9、その他で39隻、ほぼ戦力は互角であった。敵艦が宗谷、津軽、対馬のどの海峡を通ってくるかが大問題だったが、東郷は対馬にすべてを懸けると決意した。五月二十七日、敵艦は予想どおり対馬海峡に姿を見せた。見張りの漁船から「敵艦見ゆ」との情報に接し、東郷長官は「皇国の荒廃、この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ、天気晴朗なれども波高し」のZ旗を掲げた。

戦いは見事なT字戦法により、約半日で完全に近い勝利を収めた。ウラジオストークに逃れたのは、たった二隻、残りは全て撃沈か捕獲された。味方はほとんど無傷であった。勝因は、戦術の巧妙さ、日頃の猛訓練、日本が発明した下瀬火薬の威力などがあげられる。日本大勝利の報は、かたずを呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させた。英国のネルソンによるトラファルガー沖海戦以上に、世界戦史上に名声を留めることになった。日本では三日三晩の提灯行列が行なわれ、万歳、万歳の歓呼の声は津々浦々に鳴りひびいた。日本民族はじまって以来の感動が、日本列島に満ちあふれた。

世界の国々の中で、このニュースを聞いて最も喜んだのは、従来ロシアに占領されたり、圧迫され、いじめられ続けてきたフィンランド、ポーランド、トルコなどの国々であった。これらの国はこの勝利を我が事と喜び、日本国と東郷平八郎を賞賛した。トルコのイスタンブールには「東郷通り」があり、さらに「乃木通り」もある。ポーランドではトーゴーやノギが人名になっているほどだ。フィンランドでは「アドミラル・トーゴー」と銘打った東郷ビールが、今でも広く愛飲されている。

日露戦争は有色人種が白色人種に勝った初めての大戦争で、当時の列強に植民地にされていた世界中の被抑圧民族を感動させ、独立への夢を駆り立てた。これこそ人類解放の出発点であった。日露戦争勝利は、世界史にとっても、日本史にとっても、最も重要な出来事である。これほど民族にとって栄光ある事件はない。ところが戦後の日本の歴史教科書は、東郷元帥の名も乃木稀典や名参謀・児玉源太郎などの英雄の名も故意に外し、日露戦争の事実を軽く扱うか、教科書によっては侵略戦争と位置付けている始末である。国史から感動的な史実を抜いては教科書とはいえない。戦後の教科書は、占領政策下で日本去勢化を狙った占領教科書のままなのである。(P252~P258)

(コメント)
日清戦争から大東亜戦争に至るまでの、日本の行なった戦争は全て自衛戦争であり、そのことは日本を戦後処理で去勢したGHQのマッカーサーも、後に米国議会で証言しているところである。現在のように航空機やレーダー、人工衛星、ミサイル兵器が発達していなかった当時、朝鮮半島が敵国の基地になることは、日本の安全保障にとっては重大な問題であった。満州及び中国、朝鮮半島に野心を抱いていた大国ロシアの南下は、日本の国家存亡の危機を意味していたのである。当時のロシアの国力は日本の20倍以上もあり、自衛目的以外で、戦争を仕掛けられるような相手ではなかった。シベリア鉄道が完成し、満州、朝鮮を支配下に入れ、物量で圧倒されれば、日本は完全に勝ち目が無くなる。そうなる前に決戦を仕掛け、日本の安全を守る必要があったのである。

日露戦争は奇跡的に日本の勝利で幕を閉じたが、まさに二重、三重の意味で奇跡であった。小国が大国に、有色人種が白人に勝利した、世界史にさん然と輝く、民族的な栄光でもあったのである。戦後の反日自虐教育では、日露戦争はせいぜい年号を暗記するぐらいのようだが、本来ならNHKの大河ドラマででも放送してしかるべきものである。先人の偉業が過小評価され、歪曲されている現状は非常に残念と言わざるを得ない。東郷平八郎元帥を始め、日露戦争を戦った軍人達はとても立派な顔をしていたように思う。乃木大将もその指揮能力の評価はともかく、人格的には非常に立派だったと聞く。内面から滲み出る品格が表情に出ていたのだろう。

日清戦争の下関講和条約の講和内容を見ると、いかに大東亜戦争でアメリカに日本が酷い仕打ちを受けたかが分かる。無条件降伏に近い条件を突きつけられ、原爆を落とされた挙句、軍事裁判で要人がリンチにかけられ、改正困難な国際法に違反した占領憲法を押し付けられなど、その他数え挙げればきりがない。果たして狂っていたのはアメリカだったのか、日本だったのか、その答えはもはや明らかだ。アメリカのような傲慢で異常で冷酷な国家が、正義の国とか、何かの冗談にしか聞こえないだろう。よくぞ戦後60年以上、騙され続けてきたと我ながら感心するしかない。

お隣の韓国は、何かと日本と歴史で張り合いたがるが、日露戦争の一事をとってみても、永久に日本には及ばないだろう。せいぜい上手に被害者ぶって歴史を捏造するのが関の山だが、オナニードラマでも作って、キムチをかじりながら悦に入っているのがお似合いの連中だ。日本にはドラマ以上に豊かで誇りのある真実の歴史がある。戦後60年、今だに日本人は本来のアイデンティティーを失って闇夜に彷徨っているが、夜明けのない夜はないとも言う。政情不安で、民主党政権になれば日本自体、どうなるか分からない状況だが、いずれ日本人が真実の歴史と誇りを取り戻す日が必ず来ると信じたいものである。

                                    人気ブログランキング

白人侵略の終着点・日本の対応③

                                              人気ブログランキング

白人侵略の終着点・日本の対応③

侵略の世界史  ~この500年、白人は世界で何をしてきたか~



関連記事
捕鯨問題とオーストラリアの歴史
日本の戦後社会のカラクリ
500年の歴史スパンで見る大東亜戦争の意義
スペイン・ポルトガルの世界征服①
スペイン・ポルトガルの世界征服②

スペイン・ポルトガルの世界征服③
白人欧米国家による奴隷貿易の真実
アメリカの歴史の真実①
アメリカの歴史の真実②
アメリカの歴史の真実③
英仏蘭によるアジアの植民地支配①
英仏蘭によるアジアの植民地支配②
ヨーロッパ列強によるアフリカ分割
白人侵略の終着点・日本の対応①
白人侵略の終着点・日本の対応②


欧米が驚いた幕末日本の技術力

洋学の普及で、幕末の頃には、識者の中には佐久間象山、青木昆陽のように西洋事情に通ずる学者が輩出していた。江川太郎左衛門の韮山(静岡県伊豆)の反射炉から、鉄、さらに大砲鋳造の技術も十分習得していた。薩英、下関戦争はその力だめしでもあった。しかし敗北し、列強の近代軍と兵器の強さを肌身で実感し、彼らの力の秘密を先取りして、早急に対策を立てねば日本は危ないことに気がついた。

勝った列強側も、日本の火器による抵抗の激しさに、日本は他のアジア諸民族と同じように、野蛮人と見てはならない、見下してはならぬ、手ごわい相手だと警戒するようになった。このことは日本が唯一植民地にならなかった原因でもある。ペリーが浦賀に来航した時、彼はさっそく江戸湾の測量を始めてみた。ペリーは、すでに伊能忠敬が作成し、シーボルトによってひそかに西洋に持ち出されていた日本地図を持っていたので、測量結果と比較してみて、その正確さに驚いた。野蛮な国だと思っていた日本という国は、恐るべき技術を持った国だと認識して、ペリーは江戸湾の測量を中止して直ちに琉球に引き揚げていった。

以上の例から、列強が日本は侮れない国だと、一目おいていたことがわかり、さらに明治維新の近代化の原動力が、江戸時代に培われていたことを知ることが出来る。ヨーロッパ列強の強さの秘密は、富国強兵である。西洋の富国は産業革命以来の商工業の発達にあるとみて、日本も殖産興業策にはげむことになる。その富を利用し、徴兵制と兵器の充実で、強兵を養い軍事力を蓄えることが急務であった。

さらに国民の質を高めるために学制改革を急ぎ、初等教育を義務化した。また国の財政を豊かにする地租改正も実施した。この徴兵義務、教育義務、租税義務の三つは、明治維新の三大改革、三大義務といわれる。江戸時代の身分制でもある士農工商を逆転させて、商工農士の順に力点をかえた。つまり商工業を盛んにして国を富ませ、農士は徴兵によって強兵に育てる。これは上下の身分制ではなく、国家の当面の役割分担にすぎない。明治元年の天皇の五箇条のご誓文の一つ、「官武一途庶民に至る迄、各々志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」の見事な実践であった。

外国を驚嘆させた武士階級の“集団自殺”

さて、明治維新というと文明開化、殖産興業、富国強兵、学制改革などが連想される。しかしこれらの出発点となった“廃藩置県”の大業を忘れがちである。これは驚くべき社会階級革命であった。それがほとんど無血で進行したのはなぜか。それは国民上下一つになって国論を統一し、何人もお国のためにと一致協力して国難(外患)に立ち向かったからである。版籍奉還により、形式的には封建体制は崩壊したが、各藩は依然として残存しており、旧藩主(大名)も知藩事に任命され、徴税権、藩兵統率権などを把握していて、中央集権の実はあがらなかった。そこで維新政府は明治四年七月、藩を廃して県を置く、廃藩置県を断行した。

当時まで長く士農工商の最上位にあった武士階級が、自ら進んで特権を放棄して、中央集権国家形成に協力した。この移行のため多少のいざこざはあったが、私益を捨ててお国のために力を合わすことになったのである。この革命を、外国の史家は、武士の集団自殺に等しい快挙だと絶賛している。私権優先の外国では、絶対見られないことである。(P238~P240)

日本を救った吉田松陰の先見の明

明治に近代化が一気に達成できた原因として忘れてはならないことは、西洋文明の強さの仕組み、仕掛けを逸早く(いちはやく)日本側が知ってしまったことである。その第一の功労者が吉田松陰であると、私は以前から確信している。「己を知り、彼を知れば百戦、危うからず」という孫子の格言がある。松陰は日本の各地を旅して美しい国土の地理を知り、水戸に滞在して、水戸学に触れ、日本の歴史の真髄に目覚め、大和魂のかたまりに変心していった。

しかしまだ彼は、外国をまったく知らない。ペリー来航で、たった四隻で国内を騒然とさせる、その力の根源は何か。松陰は考えた。一体西洋文明とは何か、アメリカとは何か、彼らが持つ軍事力の根源、文明のからくりは何か。彼らに単に抵抗する前に、その仕掛けや精神を直接見て、知ることが絶対必要だと直感した。この先見の明こそ、日本を一気に近代化させる源流になったのである。つまり文明という手品の種を見てしまえば勝ちだと考えたのである。

松陰はペリーの軍艦を浦賀に見て、矢も盾もたまらず、密航の決意をかためた。国禁を犯すのだから、失敗すれば重罪、成功して渡洋しても、その後日本に戻れるかどうかさえおぼつかない。それでも松陰を決断させたものは何か、日本を救う道はこれしかない、おれがやらずに誰がやる。「かくすれば かくなるものと知りながら 已むにやまれぬ大和魂」
だったのである。時に松陰、わずか25歳であった。

若き松陰に海外渡航の国家的重要性、緊急性を説き、かげで指導したのは、20歳も年長の師、大蘭学者・佐久間象山であった。このことも忘れてはならない。松陰はわずか30歳の若さで、安政の大獄で処刑されるや、
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちるとも 留め置かまし大和魂」
の辞世を残した。さらに母思いの松陰は、
「親思う心に勝る親心 けふのおとづれ なんと聞くらむ」
という痛哭の歌を残した。
刑場から師の遺体をもらい受けたのは、萩の松下村塾の弟子、伊藤博文であった。博文、時に19歳。師の魂は即座に博文ら多くの弟子たちの心に乗り移り、明治回天の偉業を果たすことになるのである。中でも博文と井上馨は師にならって、その後すぐロンドンに密航留学し、師が果たせなかった西洋文明の何たるかを身を以って体験し、多くの知識を持ち帰り、日本の進路を誤りなく導いた。伊藤博文は師の吉田松陰の意を完全についだから初代首相から4たび総理に選ばれ、明治維新の元勲中の元勲と讃えられたのである。(P241~P243)

(コメント)
昔の日本人の美徳の一つは、公の為に尽くすことを非常に尊んだということだろう。幕末の志士達に多大な精神的影響を与えた吉田松陰は、そういった美徳を持っていた代表的な人物といってもいいのかもしれない。現在の反日的で自虐的な日本の歴史教科書では、廃藩置県も単なる歴史用語の一つとして流されるだけだが、客観的に見直せば、輝かしい先人達の偉業の一つであることが分かる。日本の歴史教科書は、GHQの検閲以来、国や皇室に尽くした人物の扱いが軽視され、反乱分子などが意図的に取り上げられる傾向が強い。

幕末以降の日本史は世界の動静と比較しながら学ばないと、日本の素晴らしさや歴史的な出来事の本当の意義などは分からないだろうと思うが、反日組織で有名な日教組の存在目的は、優秀な日本人をなるべく愚民化することにあるので、まともな歴史的視点などはハナから教える気がないのだろう。栄光ゼミナールという有名進学塾では、小学生の授業で従軍慰安婦やら南京大虐殺などの捏造された自虐史観を 受験に出ないのにプリントで配って洗脳しているそうだが、教育を利用して子供を洗脳しようという卑怯な連中は、残念ながらどこにでもいるようである。

現在、盛んに宣伝されている地方分権についても、強い国家を作るため、中央集権国家を作るために廃藩置県を断行した歴史から考えれば、素直にクエッションマークが付かざるを得ない。小さい政府を作っても、その分大きな県庁が誕生するわけで、効率化するならまだしも、わざわざ非効率化を行なって、掛かる総費用が増えるのならば、地方分権などやらない方がマシなのではないのかと思う。功罪を無視して、念仏みたいに「ぶんけん、ぶんけん」言われても、正直、判断のしようがない。

先達は廃藩置県で国のために財源や権限を放棄したが、現在の知事連中は、地方分権の名の下、利権のために財源や権限をよこせと言っている。衆議院選挙出馬をチラつかされて、ろくに任期も努めずにフラフラする東国原知事の例を見ても、本気で自分達の県を良くしたいと考えている知事は少数派なのではないだろうか。まして国のことなど本気で思っているようにはとても思えない。馬鹿高い地方公務員の人件費の維持のために、地方分権の財源と権限が使われては本末転倒もいいところだろう。

                                              人気ブログランキング

白人侵略の終着点・日本の対応②

                                              人気ブログランキング

白人侵略の終着点・日本の対応②

侵略の世界史  ~この500年、白人は世界で何をしてきたか~



関連記事
捕鯨問題とオーストラリアの歴史
日本の戦後社会のカラクリ
500年の歴史スパンで見る大東亜戦争の意義
スペイン・ポルトガルの世界征服①
スペイン・ポルトガルの世界征服②

スペイン・ポルトガルの世界征服③
白人欧米国家による奴隷貿易の真実
アメリカの歴史の真実①
アメリカの歴史の真実②
アメリカの歴史の真実③
英仏蘭によるアジアの植民地支配①
英仏蘭によるアジアの植民地支配②
ヨーロッパ列強によるアフリカ分割
白人侵略の終着点・日本の対応①

来るべき白人侵略に、着々と手を打っていた江戸時代

江戸中、後期になると社会の繁栄と、平和のゆとりが新学問を一挙に興隆させた。それは儒学と国学と洋学に大別できる。儒学は幕府の御用学問として栄え、朱子学と陽明学に多くの逸材が輩出した。儒学は支那発の漢学であるが、賀茂真淵や本居宣長は古事記や万葉集、源氏物語の研究から、日本の本質、原点を究明する国学を大成した。宣長は従来の儒教、仏教の教えを「からごころ」「ほとけごころ」として排斥し、「やまとごころ」こそ至高のものと説いた。

「敷島の大和心を人問わば朝日ににほふ山桜花」

水戸光圀は『大日本史』の編纂に着手し、儒学の一派で水戸学を大成した。これは天朝の尊厳を説き、幕末尊王論の源流となった。水戸の英明な藩主、徳川斉昭の時代には『新論』を著した会沢正志斎や藤田東湖などの憂国の学者を生んだ。水戸学は日本学ともいわれ、幕末に活躍した勤王の志士たちは、吉田松陰、坂本龍馬、橋本左内、佐久間象山など、すべて一度は水戸藩の藩校である弘道館で学んでいる。儒学は「覇道」を説くが、水戸学は皇国の「王道」を力説する。萩の吉田松陰は初めて水戸学に接して感動し、大和魂や武士道の本質を体得するのである。それが止むにやまれぬ憂国の実践行動として海外密航につながり、その精神はやがて、松下村塾の教え子達に乗り移り、明治維新の回天の偉業の原動力になっていったのである。

次は洋学である。戦国時代から西洋の学統は南蛮学と呼ばれ、好奇心、勉学精神の強い日本人に注目されていた。鎖国後も長崎の出島を通して、オランダの学問・蘭学が多いに発展していた。蘭学は、18世紀後半に前野良沢、杉田玄白らによる『解体新書(ターヘルアナトミア)』の出版で基礎が確立し、医学の分野を中心として発展した。さらに蘭学は、天文学、地理学、化学、植物学などの自然科学の諸分野に、著しい発展を促した。幕府も洋学所(蕃書調所)を設け、奨励した。中でも伊能忠敬は、日本で初めて正確な実測による日本地図を完成した(『大日本沿岸與地全図』)。

18世紀の初めになると、ロシア人が千島に南下し、蝦夷地に出没するようになった。寛政の三奇人の一人林子平は『海国兵談』を著し、海防の急務と説いたことは前章でも触れた。幕府は林子平の説を世を惑わすものとして処罰し、版木を没収してしまった。彼は
「親もなし 妻なし 子なし 版木なし 金もなければ 死にたくもなし」
と歌い、「六無斎」と称した。先覚者の悲哀である。以上のごとく、江戸時代は鎖国して何もせず、じっと内にこもっていたのではない。白人侵略を予感して、学問と教養を深め、武士道や大和魂で精神を練磨し、地理測量や探検、兵学で対抗する準備を着々と整えていたのである。

津和野藩出身の国学者・大国隆正は文政元年(1818年)、二十七歳の時、長崎に遊学して、オランダ通辞から次のことを聞いたと記録している(『大国隆正全集・第一巻』)

「西洋諸国の見る所では、アジアに未だ、支那、日本の二ヶ国が西洋に従はない。しかし西洋が連合して当たれば、支那は十年で料理できるが、日本は三十年かかるであろう。
日本は小国だが三つの障害がある。

一つは、人口が多く、武くして支那人のたぐひにあらず。
一つは、海岸が多く攻めにくい。
一つは、萬古一姓の天子ありて、人心これを尊ぶ心深し。

三十年で従えることが出来るであろうが、しかし、そのあと、日本国中の人間をことごとく斬りつくし、西洋から移民を送り、草木まで抜き捨て、植へかへなければ、我々西洋のものにならない。一人でも日本人を残しておけば、恢復の志を起こし、また燃え立つべし。そんな国が日本だ」と。(P229~P232)

未曾有の国難にあたり、国論を統一させたものとは

アヘン戦争から10年後、今度は東からアメリカのペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に姿を現わし、砲艦外交で開港を強く迫った。それは嘉永六年(1853年)6月3日のことであった。ペリーの来航は、幕府はもちろん、江戸市中を大混乱に陥れた。市民は初めてみる蒸気船を「黒船」と称して恐れ、避難のため右往左往し、太平に慣れた武士も、にわかに武具を備える有様であった。
「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠れず」
「武具馬具師アメリカ様とそっといい」
などの狂歌がこの間の事情をよく物語っている。
ペリーは、いったん帰国したが、約束通り、翌嘉永七年、軍艦7隻を率いて浦賀に入港、江戸湾を測量して武威を示した。幕府はその威嚇に屈伏し、同年3月3日、日米和親条約を、安政五年(1858年)には日米修好通商条約を締結させられた。

これを見て、列強のオランダ、イギリス、フランス、ロシアからも、同様の条約を締結させられた。これらの条約はいずれも相手国の治外法権を認め、日本の関税自主権を認められぬという不平等条約であった。列強が一斉に日本になぐりこみをかけてきたのである。このままでは日本は欧米勢力に呑み込まれてしまう。この国難的危機をどう乗り超えるか。ペリー来航から明治維新を迎えるまでの15年間、国内は開港か攘夷か、佐幕か勤王か、いわゆる幕末の大動乱が続くのである。民族の内部が各派に分かれて闘争し、騒然たる無秩序の時こそ、西欧列強の侵略のチャンスである。フランスは幕府を支持し、イギリスは反幕派を応援したりして動乱を煽動することにつとめた。

1858年、井伊直弼が大老に就任するや、尊皇攘夷論者への弾圧が始まり、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)ら多数の志士が、「安政の大獄」で処刑された(1859年)。文久二年(1862年)八月、薩摩藩主の父、島津久光一行が江戸よりの帰途、相模の生麦で、行列を横切った英国人数人を、藩士が斬りつけ負傷させるという生麦事件が起こった。翌年英艦は報復のため、鹿児島を砲撃した。薩英戦争である。その翌年英米蘭の4ヶ国16隻の連合艦隊が長州の下関を砲撃し、三日間で全砲台が破壊、占領された。薩摩と長州は、この戦いで列強の近代兵器の威力を存分に思い知らされた。

幕末の薩英戦争と下関戦争は、日本の初めての西欧に対する防衛戦で、しかも敗北し、身をもって列強の力に脅威を感じた。国内で日本人同士が争っている場合ではない。早く国論を統一して外患に当たらねば、日本は滅亡するという危機感に襲われた。このため坂本龍馬の斡旋で薩長同盟がなり、幕府の大政奉還、王政復古を早め、江戸城無血開城となった。そして天皇中心の「錦の御旗」の下、新政府で国論を統一し、明治維新を迎えることができた。

幕末は、日本があわや西洋勢力に呑みこまれようとする累卵の危うきにあった。これを救ったのは、各藩の下級武士たちが幕府や藩の利益を越えて、日本という国のために一致団結する必要を痛感したからである。江戸時代に培った武士道や大和魂の賜物であった。幕府の最後の将軍・徳川慶喜が尊王論の水戸学発祥の地、水戸藩から出たことが幸いしたのだ。慶喜は天朝にもっぱら恭順を示し、大政奉還をスムーズに移行させることができたからである。フランス革命なら、慶喜はギロチンで果てるはずであった。それが幕府側にも、天朝側にも犠牲者がなく、無血革命ができた。慶喜はその名の通り両勢力に喜びを与えることになった。(P234~P237)

(コメント)
明治維新を実現出来た背景の一つに、日本人が古くから皇室を尊び、日本独自の国体を守り続けてきたことが挙げられる。もし「錦の御旗」が無かったならば、日本は維新前に分裂し、欧米に付け入る隙を与えていたのではないだろうか。また、大日本帝国が欧米と互角に渡り合えたのも、皇室を中心に日本人が一致団結していたからである。外国からしてみれば、これはとても脅威であり、反面、羨ましいことだったに違いない。その証拠に戦後、反日勢力は皇室の権威を低下させることに腐心し、教育、メディアの報道で皇室を貶め続けている。反日勢力の手先としてついには雅子妃を皇室に送り込み、メディアとグルになって女系天皇の実現によって、皇室の権威の源である皇統の断絶を画策しているありさまだ。

日本人が皇室を敬う、という気持ちを持つことは、安全保障上も大きな役割を果たしてきたわけで、国家の危機に際して国論を統一させる効果も持っている。現在の自虐史観、反日教育の影響で、もはや大多数の日本人は、皇室を敬う気持ちを持っていない可能性もある。皇室と日本人の関わり、皇室の歴史をありのまま教えれば、自然と皇室を尊ぶ心が湧き出てくるのが日本人であるが、現在はそういう事実すら教えていないのが現状だ。国家は外部から滅びず、内部から滅びるとよくいわれるが、今の日本はまさにその通りの状況である。思想と情報を支配され、じわじわと平和裏に国民が腐敗し、弱体化していく状況は、有史以来、初めてのものに違いない。幕末に匹敵するような、未曾有の国難を迎えていると言っても良いのかもしれない。

江戸時代に大成した水戸学が幕末の思想的なバックボーンとなり、日本は明治維新の大業を成し遂げることに成功したが、水戸学の生みの親が水戸黄門で有名な水戸光圀であったことは興味深い事実である。テレビ番組のように諸国漫遊はしなかったが、水戸学を生み出すことによって、黄門さまは十分に日本を救う働きをされたと言っても良いのかもしれない。水戸学の影響を受けた吉田松陰の松下村塾からは多くの英傑が輩出し、その英傑達が日本を明治維新に導いた史実はあまりに有名だが、彼らに尊敬され慕われた吉田松陰が、大和魂をうたった有名な和歌が次の二句である。

かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂
(捕らえられて江戸への護送中にうたったもの)

身はたとひ 武蔵野野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
(辞世の句)

一途に国の未来を想い、我が身を顧みない松陰の無私の心に、一般ピープルの自分ですら心打たれるが、現在の反日的な国会議員や経済人、知識人、官僚、公務員に百万遍くらい聞かせてやりたい気持ちがする。高校、大学の勉強も役には立つのだろうが、道徳、倫理的にはあまり意味もなく、教員養成の国立大学で女子学生の集団暴行事件が起こるようなありさまである。慶応、早稲田といった古くからの名門大学にも、既に設立当初の志はない。田母神前空幕長を講師として招聘する大学が一つくらいあっても良さそうなものだが、そういう話も一向に聞かない。現代日本の悲劇の一つは、かつての松下村塾のような、国や国民の事を第一に考えて行動できる、日本を導く英傑を育てる私学が存在しないことなのかもしれない。

                                    人気ブログランキング

アマゾンが送料無料

東京裁判の真実を映画化

最新記事

カテゴリ

最新コメント

最新トラックバック

リンク

プロフィール

まさやん

Author:まさやん

カレンダー

09 | 2018/10 | 11
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QRコード

Access Counter

RSSリンクの表示

おすすめの書籍1

おすすめの書籍2

アマゾンでお買い物

Top

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。