苦しい時の聖天信仰

最強最後の神様 聖天様
最強の神通力を持つ聖天様 2009年09月15日 吉田さらさ

浅草の待乳山聖天 本龍院。関東の代表的な聖天寺院で、古来より多くの信仰を集めている。
聖天様(正式名称は大聖歓喜天)は、このごろではガネーシャと言った方が通りがいいのでしょうか。ベストセラー本「夢をかなえるゾウ」に出てくる象の頭の神様で、もともとはインド生まれ。神通力があまりにも強いのと、ややエッチな姿(日本では象の頭をした男女が抱き合う姿で表現される)のため絶対の秘仏とする寺が多く、直接拝むことはまずできません。
しかし、それだけに聖天様のご祈祷には、恐るべきご利益があるのです。
浴油祈祷と呼ばれるそのご祈祷は、聖天様の像に熱した護摩油をかけるという以外には、詳細はわかりません。密教の修法の中でも秘法中の秘法で、一般人はおろか、修行中の若い僧侶なども参列を許されないほどだそうです。(浅草の待乳山聖天に行ったときにお会いした僧侶からの伝聞です)。
通常、ご祈祷をお願いすると、内陣に入って僧侶と一緒にお参りできるものですが、聖天様のご祈祷は受付のみ。深夜、密かにご祈祷が行われるということです。先日、奈良の生駒山にある聖天さん(宝山寺)に行った際、同行の友人が浴油祈祷をお願いしました。すると、その数日後の仕事が絶好調で、ものすごい営業成績を上げたとのこと。これほど即効性があるとは、ちょっと驚きでした。

関西の代表的な聖天寺院 生駒聖天 宝山寺(寶山寺)。
青い目の密教行者と聖天様
参考サイト
http://mizuya.org/01_shimpo/heisei17/shimpo_167.htm

真言宗のフランス人密教僧 融快和尚
以下 生駒聖天 宝山寺 寺報 「歓喜」第一二二号(新春号)より抜粋
歓喜天に祈る フランス国 光明院住職 医師 融快〔訳者 融仙〕
(前略)
私は子供の頃から象が好きであった。象さんというあだ名をつけた者もいた。前世からの縁であろうか、或いは自分が、まじめで親切好きで分別のある人間と思ったところが、私の想像する象のイメージと合ったのかもしれない。象のように、私も怒りを爆発させることがある。乱雑や不注意、なまけがきらいで何事もキチンとしたのが好きだからである。
普通、神や仏に祈っても、身近の友達のようにすぐに反応があることはあまりないが、歓喜天は反応が早い。必要に応じ、現実に応じて働く。全く偶然に思える出会いも後になって人生を結ぶ深い縁であったことに気がつく。自分で勝手に祈ろうとするのではなく、歓喜天が我々を選んで呼んで下さったと本当に思う。
今でも忘れられない、私と歓喜天の出会いは、御修法に出仕された青木先生のお供をして行った京都の東寺で、歓喜天を修される方にお目にかかりたいと言い終わったその瞬間に、障子戸が開いて入って来られたのが寶山寺の故松本管長で、同時に歓喜天も私の人生の扉を開いた。三十年前のことである。
教えのように十一面観音法を修して準備をした上で、松本管長から聖天法の華水供、後には浴油供を伝授していただいた。フランスではドゥセーブル県のブリー村のはずれ、全く人里離れた田舎に古い狩小屋を見つけて借りて妻の融仙と共に修行に専念することにした。
電気もなく、浴室もトイレもない。水だけは庭先に水道が一つあったが、冬には暖房もない簡素な名ばかりの住居であった。時にはジトジトした壁から水滴がしたたり、銅器の水が見る間に凍ってゆくのが見えた。指のしもやけがくずれて痛かった。こうした厳しさも苦にならず、静かな狩小屋は密教の修行に最適だったので、数年過ごした。夜中に起きて祈り、毎日の行法と誦えた真言の数を壁に張った紙に書き込んで励んだ。
歓喜天に祈り始めた頃、話しかけると答が返り、友達になったようで驚き、面白く思った。ある朝、ふと見ると灯心が燃えている器のふちが黒く汚れているのに気がついた。常に清潔に保たねばならないことはよく知っていたが、夜中ずっと祈った後だったのでつかれて、すぐに掃除をする気にならず、心の中で白い器に黒い点々はきれいだよと話しかけて平気でいた。そして毎朝するように近くの農家まで歩いて牛乳をもらいに行った時、農家のおばあさんが牛乳を注ぎながら「何といおうと汚れは汚れだからきれいにせねばね」と私に言った。おばあさんの口をかりて歓喜天が言ったことだと、すぐに分かったので、直ちに掃除をしたことは言うまでもない。清潔は絶対に守らねばならない。さもないと歓喜天の御機嫌が悪くなる。その結果、大事なものを失くしたり、忘れたりする。掃除をするとすぐに見つかったことが何度かあった。
歓喜天に祈るには、毎日食べ物を要求する象の世話をするのと同じ心構えがいる。私は歓喜天が大好きで、本当に生きている神様のように思っているので、おいしい物をさし上げて喜んでいただけるように心している。それがまた私を幸せにする。
昔は歓喜天信仰は今より広まっていたという。人びとは生きるために厳しい生活をして、科学や技術だけに頼ることはなかった。今日では〝行〟をする習慣が薄れて、人々の幸せのために一生神仏に仕える召使いになることを望み、夜中に起きて祈ることをあたり前に思う僧侶が少なくなっている。
聖天様は恐いからという者は、怒りは意地悪ではなく厳しさであることを知るべきである。無視され、そまつにされた歓喜天が誤った悪習慣を修正させたいとされているだけのこと。逆の見方をすると、厳しさも、人や物事に直接働きかけた証拠である。だから、本当に加護されると思うと私にとってありがたくうれしいことに思える。
これまで、私は大事故から二度は未然に守られたことを知っている。いくつかの困難もおかげ様で解決することが出来たのも適時適切な助言を得て、暖かい援助の手をさしのべて下さった人々に出会ったからである。
最初の頃、もっとたびたび寶山寺にお詣りに来たかったが、フランスと日本の為替相場の違いが大きすぎて、とうてい無理なことであった。ある日、松本管長と話した時、高野山の奥の院は夜中に拝むとよいと言われた。弘法大師の御廟の前で真夜中から朝まで祈って、寒さに凍えていた私達に一人の親切な僧が暖かいお茶を接待して下さったのが縁となり、田子さんという友人が出来た。求聞持の修行もしたことのある田子さんの推めで、私達も求聞持の修行をすることになった。
後に紹介された方が、寶山寺の近くに別荘を持ち、親切に提供して下さったので、それ以来日本に来る度に、立派な家に住み、毎日寶山寺にお詣りが出来た。弘法大師と歓喜天のおかげで得た不思議な出会いの一つである。
フランスの光明院も不思議な夢や出会いがなかったら、実現しなかったと思う。ヨーロッパに仏法を広めたいと高い理想を持ち、祈り続けた十年後に願い通りの広い土地と大きな家と寺を得た。丁度その頃、私の両親の上に多くの難しい問題がふりかかっていたので、容易ではなかった。今思っても全くの冒険であったと思う。ある聖天行者は、おまかせにしてなるにまかせれば他の人々がしてくれると話しておられたが、その通りだと思う。しかし、フランスでは他人にまかせてなりゆきを待つことは出来なかった。力を合わせて働く同志も少なかったので、すべてを自分達でせねばならなかった。ただ、物事には時があり、丁度よい時に成るから思いどおりにしようと無理をしなくても良いことは分かった。
(後略)
関連サイト
大聖歓喜天様(聖天様)ご利益まとめサイト
(コメント)
聖天信仰についての詳細は、関連サイトとして挙げた「大聖歓喜天様(聖天様)ご利益まとめサイト」を読んで欲しいが、なぜ今回、聖天様についての記事を書いたかと言うと、民主党政権による経済状況の悪化で苦しんでいる読者の方々の一助になれば、と思ったことが第一の理由である。経済状況の悪化の他にも、職場でのいじめ、パワハラ、セクハラ、家系の因縁、宿業など、様々な要因で苦しんでいる人達は少なくないはずである。そういった人達はダメ元だと思い、一度、五体を投げ打つつもりで聖天様におすがりしてみることをお勧めする。もちろん、別に日常に何の問題のない人にも聖天信仰はお勧めだが、それまで神仏の存在に懐疑的な人でも、聖天様の不思議なご利益を経験して人生観が変わってしまうかもしれない。
神様のなされることなので、誰に対しても100%のご利益があるとは自分ごときが断言することは出来ないが、自分の経験上、これほどありがたい神様は見たことが無い。漫画や小説に登場する神様のように派手な奇跡は起きないが、現世の法に準じて不思議なご利益を下さる偉大な神様である。元々はインドの土着信仰の神様で、太陽信仰と関わりがあったとされている。その神様がヒンドゥー教に取り込まれ、さらにそこから仏教に取り込まれて今日の聖天様となったわけである。
オリジナルがインドの被征服民族の神様なので、インドが原産の仏教では悪神が改心して善神になったと解釈されることが多いが、ヒンドゥー教や仏教など、人間の作った宗教に合わせて衆生にご利益を与え、悟りや解脱へと導く神様と考える方が自然であるように思える。頭が象さんの象頭人身の御姿なので、象に馴染みの薄い日本では容姿だけで誤解されることも多いが、聖天様を象頭人身というだけで嫌う人間は、自分が外見だけで他人を見下す悪い癖があることを自覚した方が良いだろう。
公共事業をせずに外国に金をバラ撒き、円高無策、復興予算流用の民主党政権のおかげで、日本の大企業が軒並み大幅減益、生活保護受給者が過去最高、電車への飛び込み自殺も増えたように思う。このブログは民主党政権による悪政を政権交代前から指摘していたが、反日マスコミの暗躍が災いして、史上最悪の政権交代が実現してしまい、あとはご存知の通りである。外国人参政権や人権擁護法案が紙一重で実現していないだけ、当初の予想よりはマシなのだが、それでも破壊力は十分過ぎるようだ。
苦しくて苦しくて「神も仏もないものか」とヤケクソになる前に、聖天様の御真言を唱え、暇があれば聖天寺院に参拝してみることをお勧めしたい。溺れる者は藁をもすがる、ではないが、ダメで元々なのだから、自力でどうしようもなくなったら聖天様におすがりするのも一つの選択肢である。結局のところ、運の良し悪しは、先天的要素に起因するもの(生まれた家庭や周囲の環境、遺伝など)を除けば、本人達の霊的なバックボーンが大きく影響し、例えばいくら先祖供養を熱心にしても、その先祖自体の数や力が少なければ、相対的に多数の強い先祖にしっかりした守護を受けている人間には、運の面では叶わない。その差を埋めるのが神仏への信仰であり、徳を積む(徳を積んで良い味方を増やす)ということになるのではないかと思う。
※このブログは一応、政治ブログという範疇ではありますが、管理人の思いつきでこの手の精神的、宗教的なことも書くことがあります。「今回の記事はつまんねえなあ」と思われた方もいるでしょうが、そういうことなのでご了承下さい。

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