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Date : 2011年12月11日

皇太子一家の行く手を阻む“徳”の字の呪い

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日本の歴史の中で、聖徳太子、孝徳、称徳、文徳、崇徳、安徳、順徳天皇などの諡号(名前)に「徳」の字が付く天皇または太子は、不遇な死を迎えているケースが多い(半ば伝説上の存在である仁徳天皇などについては不明)

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生まれながらに名前に“徳”の字を持つ皇太子徳仁親王

聖徳太子

推古天皇の御代に皇太子及び摂政になった。数々の伝説や業績を残したが、結局天皇にはなれなかった。622年に斑鳩宮で倒れて2月22日に亡くなったが、太子のお妃がその一日前になくなっていることから暗殺説も存在している。聖徳太子という名は死後におくられた諡号で、生前時は厩戸皇子と呼ばれていた。太子の死後、その皇子である山背大兄王は一族もろとも蘇我入鹿によって滅ぼされている。

孝徳天皇


大化の改新後に即位した天皇。史上初めて元号を定め、大化元年から翌年にかけて各分野で制度改革を行なった。中大兄皇子を皇太子とした。孝徳天皇は大化元年12月9日(646年1月1日)に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子は白雉4年(653年)に都を倭京に戻す事を求めた。

孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京に移り、皇族達やほとんどの臣下達も中大兄に従って倭京に戻ってしまった。孝徳天皇の皇后である間人皇女でさえも、兄の中大兄に従って倭京に戻ってしまった。失意の中、孝徳天皇は白雉5年10月10日(654年11月24日)に崩御した。孝徳天皇の皇子である有馬皇子は、658年、中大兄皇子によって謀反の疑いで絞首刑に処された。

称徳天皇

764年、孝謙上皇が淳仁天皇を廃して重祚。これ以降は称徳天皇と呼ばれる。女帝。元は聖武天皇の内親王。道鏡の専横を許し、769年、皇位を道鏡に譲ろうとしたが、和気清麻呂に阻まれて失敗した(宇佐八幡宮神託事件)

770年8月4日に病気で崩御したが、病気回復を願う祈祷が行われた記録がないことから、医療行為を施されず見殺しにされた可能性が高い。生涯、子供は生まなかった。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、実に850余年もの間、女帝が立てられることはなかった。

文徳天皇

842年、承和の変で皇太子恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父藤原良房にも推され代わりに立太子し、850年、仁明天皇の譲位により即位。

こうした経緯もあって、藤原良房が次第に権勢を強め、文徳天皇が東宮だった頃に嫁がせていた娘、明子(あきらけいこ)がちょうど天皇即位の年にようやく産んだ、第四皇子惟仁親王(のちの清和天皇)を立太子させる。天皇は寵愛の更衣の第一皇子惟喬親王に期待したが、良房の圧力で惟仁を皇太子とせざるを得なかった。

しかしその後も天皇と良房の暗闘は続き、良房の圧力の前に、内裏の外れにある東宮や嵯峨上皇の離宮だった冷然院などに居住して、遂に一度も内裏正殿を居住の間として生活を送ることはなかった。やがて天皇は惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが、惟喬親王の身に危機が及ぶ事を恐れた左大臣源信の諫言で取り止めとなった。

かかる状況下で、天安2年(858年)8月に突然の病で急死する。通説では死因は脳卒中といわれているが、日本史研究者の彦由一太はあまりの病状の急変から藤原良房による暗殺説を唱えている。

崇徳天皇

1123年1月28日に5歳で皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚、2月19日に即位した。院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、1141年12月7日、崇徳に譲位を迫り、体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁は崇徳の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた。天皇が弟では崇徳の将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。

その後、1156年の保元の乱に破れ、讃岐に配流される。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。その後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の1164年8月26日、46歳で崩御した。死後、後白河天皇への恨みから、怨霊になったとも、生きながら天狗になったとも伝えられている。

安徳天皇

父は高倉天皇で、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)、祖父は、平清盛。1178年11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。1180年)2月21日に践祚し、4月22日に2歳で即位するが、政治の実権は清盛が握った。1185年の壇ノ浦の戦いで平氏の滅亡と共に入水。短い生涯を閉じた。

順徳天皇

1200年4月に皇太子となり、1210年11月、父の後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて即位。穏和な土御門天皇とは反対に激しい気性の持ち主だと言われ、後鳥羽上皇に気に入られていた。後鳥羽上皇の討幕計画に参画し、1221年5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗。乱後の7月21日、佐渡へ配流となった。在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡で崩御した。

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雅子妃というとんでもないババを引かされ、ついに廃太子論まで活字で報道されるようになった皇太子殿下とその家族。東宮一家には一体どのような未来が待ち構えているのだろうか。

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(コメント)
いわゆる歴代天皇の諡号(名前)については、その死後におくられるものが大部分だが、徳の字が付く諡号については、意図的に暗殺や流刑死などの不遇の死で崩御した天皇におくられたのではないかというフシがある。理由あって不遇の死で亡くなったが、決して本人の不徳のせいではありません、とでもいうような諡号のおくり方だが、徳の付く字はあまり縁起の良い名前とは言えず、なぜ今の皇太子に徳仁という“徳”の字の付く名前が付けられたのか不明と言わざるを得ない。

親王の名前を付ける際には、当然、学者の意見なども参考にするだろうし、怨霊と化した崇徳天皇や壇ノ浦で入水した安徳天皇の名前を見ても、積極的に選択肢に入れる名前とは思われない。偶然なのか、それとも何か運命的なものなのか、その結論はこれから出るのかもしれない。

今回の記事を書いていて感じたことは、雅子妃入内に端を発した現在の皇室の混迷状態ですら、皇室を守る日本の神々はあらかじめ見通していたのではないか、ということである。

例えば、雅子妃と紀子妃殿下の入内前の名前をひらがなにして、斜めからジグザク読みに読んでも、おわだまさこ、かわしまきこと読むことが出来る。

お わ だ ま さ こ
か わ し ま き こ

単なる偶然と言ってしまえばそれまでだが、偶然の中に何か未知の力を感じてしまうのは自分の考え過ぎだろうか。皇太子にかけられた“徳”の字の呪いが偶然でないとすれば、現在マスコミが騒いでいる女性宮家や愛子天皇、雅子妃問題などは、いかに反日勢力が工作を行おうが、彼らの思うようにはならないということである。

結果として、万世一系の皇統は揺らがず、愛子天皇や女性宮家は誕生せず、東宮問題もいずれ片付くのではないかと推察出来る。もちろん悠仁親王殿下のご即位を妨害する動きや勢力があれば今後とも批判していくつもりだが、恐らく最初から予定されている“着地点”に落ち着くのではないかと思う。それは我々庶民が考えた“着地点”ではなく、日本の神々が考えた“着地点”なのではないかと予想している。


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