亡命者が明かした文化大革命の実相

※今回の記事はかなりグロで残酷な表現が含まれています。
絶版になった文化大革命暴露本

食人宴席―抹殺された中国現代史 (カッパ・ブックス)
参考サイト
http://5960.iza.ne.jp/blog/entry/537019/
(以下 食人宴席より引用)
プロレタリア独裁とは「階級の敵」を殺害することだ。賓陽県史は文革後、新しく編集されてこう述べている。
「一九六八年七月未、県革命委員会王建主任(6949部隊副師団長)、王貴増副主任(県人民武装隊副政治委員)は『73指示」を貫徹するためにあらゆる人員を動員して、労働者階級の敵に対する猛烈な攻撃を展開した。全県で迫害され、殺害された者が三千八百八十三人、『73指示」を貫徹するために、それ以前に殺害された者が六十八人で、合計三千九百五十一人である」
一九六八年七月二十二日、県革命委員会は「73指示」を徹底的に実現する会議を開いた。「賓陽大虐殺」はこのときから始まった。総指揮者は王建である。賓陽県は二十六日、プロレタリア独裁大会会場で二人を殴殺した。二十七日、街頭ひき回しデモで「四類分子」(反動、地主、富豪、悪質分子)十四人がつるし上げ糾弾闘争のあと、殴殺された。
同日、県武装部は、幹部たちが殺人現場を見学した。二十八日夜十時、蒋河公社の呉某民兵連隊長が、各村の民兵に呼びかけ、四類分子を逮捕して公社に集合させ、二十四人を集団銃殺した。同日、王建は紅色恐怖をつくるために、いちばん賑やかな中心地区で、「二十三種分子」の批判糾弾大会を開き、群衆をそそのかして、棍棒、石ころを持って、七、八十人を殴殺した。そのなかに、県立病院院長、副院長、および内科、外科、産婦人科、薬剤師主任などの知識分子が含まれていた。
二十九日午前、王建は、県軍管区会で、政治法律幹部会議を招集し、殺人を推進するために、殺すべき対象、時間、手段、方法と目標などの具体的な指示をした。
彼は会議の席上でこう述べた。
「この一戦は七月二十六日から八月十五日までを一段落としてもらいたい。主要な闘争対象は、裏切り者、特務、死ぬまで悔い改めない走資派(資本主義志向派)と、いまだうまく思想改造されていない地主、富農、反革命分子、右派分子、さらに投機分子などである。県の重点は、新賓、盧墟の二ヵ所である。新賓は現在すでに幕を開いた。この任務を執行しなければならない。公然とは大会を開いてはならない。ただ、個別的に火をつけるだけでよろしい」
「群衆は、悪い人と思えば、彼らを『専制』しなければならない。『専制』とは、本来はプロレタリア独裁という意昧だが、ここでの『専制』という意味は殺人、処刑である。あなたたちは、人民のやりたいことを阻止してはならない。運動が始まったころには、積極分子が何人かを銃殺することは大した問題ではない。しかしわれわれは彼らを銃ではなく、拳骨、石ころ、棍棒を持って殴り殺すのが、群衆に対する教育の効果が大きい。賓陽県には現在、四千名の四類分子がいる。あなたたちは彼らを十数年かけて改造しても、私が見たかぎりでは、彼らは一人も改造されていなかった。人民があれほど精力をつくして彼らを監督しても、われわれがあれほど精力をつくしても、とうてい彼らを改造することができなかった。こんどの運動では、敵の三分の一か、四分の一を打ち殺さなければならない」
同じ日、王建は、県革命委員会で、招集された全県各地区武装部長と、人民公社の民兵隊長の緊急会議で、消極的な幹部に対して圧力をかけた。地獄の門はこのようにして開かれた。紅い嵐はアッという間に、全県に吹き荒れることになった。民衆は歴史上、かつてなかった大虐殺の恐怖に陥れられた。殺人モデル会が開かれ、その後、全県百七十二個大隊で、大虐殺の嵐がうずを巻いたのである。
この間、公安幹部の一部は、監察員として、全県各地で幹部の虐殺ぶりを監督し、しかも毎日、殺人の進展状況を報告させたのだった。県公社の指導部は絶えず電話をかけ、闘争の進展を報告し、指導部は闘争のあまりにも進まない大隊に対して圧力をかけた。弾薬をやたらに使うな、拳骨と棍棒と石だけ使え。そのために何千人もの罪のない哀れな人間が、大虐殺の嵐の中で、殴られ、骨を折られ、血を流し、殺害されていった。
なぜ、「賓陽大虐殺」裁判は、行なわれないか。
この「賓陽大虐殺」事件は、賓陽県史上、空前絶後で理解ができても決して許すことができない。賓陽県文革では、虐殺者の人数が広西全区で第一位である。抗日戦争のとき、日本軍に殺された人々は、全県で三百余人であった。これは民族の戦争である。中国革命の初期、匪賊が三百余人を殺した。これも銃を持つ敵に対する作戦であった。しかし、なぜ平和のときに、アッという間にその十三倍もの人間が人民の私刑によって殺されたのか、これは考えなければならない問題であり、避けては通れない問題でもある。
「賓陽大虐殺」事件は一九八三年、やっと十五年後になって、賓陽県当局が文革期間中に無実で殺され、あるいは迫害で亡くなった三千九百五十一人の全員を名誉回復し、県政府名義で死者の家族に対して名誉回復通知書を出した。しかし、この通知書だけで数千人の亡霊をなぐさめたことになるのであろうか。さらに遺憾なのは、共産党の政策が法律に優先したことである。つまり広西当局が、重ねて歴史問題はなるべく寛大に処理すべきであると指令したのだ。その通知が全県でわずか五十六人を裁判にかけ、そのなかでたった一人の死刑という結果を生んだ。そのことは、一人の人間の命と三千九百五十一名の命とが同じだということであって、これはあたかも社会と法律を皮肉るかのようなものであろう。
しかし、李増明書記は、私にもう一つの意外なことを教えてくれた。裁判にかけられた人々は、自分たちが無実であるということを主張しているというのである。「賓陽大虐殺」事件の主犯は王建であるが、今日にいたっても彼の裁判が行なわれていないのだ。この人物は、みずから大虐殺計画を実行した。彼は賓陽県の民衆を大虐殺しながら、共産党員としての地位がだんだん上がり、広州警備区の第一副司令にまでのし上がったのだ。最終的には光栄ある身分で引退し、今日は大きな邸宅で悠々自適である。裁判にかけられた人物はすべて小物である。もし火つけ役のそそのかしがなかったら、あれほど人々は殺害されなかったはずである。
最近になって、王建が「賓陽大虐殺」事件の主犯であるということを証明するために、当時の日記、電話、会議記録が提出され、王建指揮の、大量殺人犯罪が事実であるとの資料がまとめられて、中国共産党賓陽県委員会の名で提出されている。
この資料は、二十八ページにわたり、最後につぎのように書いてある。
「……以上の大量虐殺の事実は、王建が十分に殺人事件の主犯であることを証明することができる。被害者の数が多く、手段は残酷で、民情はきわめて憤慨し、その人物についてはすでに殺人罪を構成している。われわれの意見としては即時、逮捕して厳罰に処すべきである。中国共産党賓陽県委員会。一九八四年九月十五日」
李増明書記が私にこの告発状を手渡してくれたとき、私は、その資料の署名の月日が一年半前のものであることを発見した。つまり、案陽県委月会は、この長い一年半の間、みずからこの告発状をつくっていながら、その受取人がいなかったのだ。ここは全く言論の自由、新聞の自由、出版の自由のない国である。私は、ただ一人の文化人に過ぎず、何の力もない。私は、ただこの 六月二十六日、県革命委員会が階級闘争の新しい情勢の展望を研究、分析する会議を開いた。
各地区革命委員会の主任、区武装部の部長は、殺人の進め具合を報告した後、つぎからつぎへとエスカレートした階級闘争 - これ以上の街頭引き回しデモ、つまり糾弾闘争はやめたいと要求した。この階級闘争の後退するような雰囲気のなかで、県武装部の政治委員、県革命委員会の孫瑞章第一副主任は非常に不満で、こう反論した。
「恐れることはないのだ。諸君は何を恐れているのか、さっぱりわからない。こうしなければ、絶対に、階級の敵を抑えることはできない。人民の闘争意欲を育てることはできない。決して、われわれは恐れてはならない。続けて街頭引き回しデモ闘争をやり、糾弾大会をやるべきだ」
この会議が終わってから、武宣県の惨劇はまさに高潮期に入ったのである。
これは生きているままで、人肉を削ぎ取られ、食べられた典型的な食人事件である。一九六八年七月某日。通挽区大園村。第七生産隊の甘克星が糾弾大会を指揮し、甘大作の糾弾大会を開いた。その後、甘大作は近くの畑まで引きずっていかれ、ひぎまずくように命令された。そのあと、甘大作は棍棒で頭を殴られ、昏倒したが、まだ絶命していなかった。このとき甘祖揚が甘大作のズボンを脱がせ、生殖器を切ろうとしたところ、甘大作は、息絶え絶えでもがきながら彼に哀訴した。
「私が絶命するのを待ってくれ、死んでから切り取ればいい」
しかし、甘祖揚は全く開かずに、性器を切断しようとした。甘大作はわめき、もがき、絶叫したが、甘維形らは競って大腿部の肉を削ぎ落とし、甘徳柳は腹を切り裂いて肝を取った。またその他の人々はどっと歓声をあげて、甘大作に殺到し、人肉をすっかり削ぎ落として持って行った。この生きたままの人間の肉に襲いかかった状況は、きわめて残酷であって、見てはいられない残虐さである。
この事件には、もう一つ余談もあった。甘祖揚が手を下すまえに、「七寸(生殖器のこと)はおれのものだ。だれも切り取ってはならん」と大きな声でわめいたのだ。競って人肉を切り取っているとき、この叫びはまことに恐ろしく、また生々しい状況の一つである。甘祖揚という人物は生産隊幹部でその後、七年の刑を判決されたという。
典型的な《人肉宴会》とは、どんな様子か。
もうーつは、《人肉宴会》の典型的な例である。一九六八年四月十日。三里区上江郷門前で糾弾大会が開かれた。この糾弾闘争では、四人が棍棒で殴殺され、四人の死体が肉を切り取られ、二つの大きな鍋で煮て、約二、三十人がその《人肉宴会》に参加したのだった。衆人環視のもと人肉を煮て食べるという集団会食事件が、地方政府所在地で開催されたということは、きわめて衝撃的な影響を与えた。
この日、群衆が競って人肉を切り取り、熱気むんむんの殺人現場で、一人の髪の毛が真っ白の老婆が興奮して群衆の間に割り込み、ひと切れの肝を切り取って、かごに入れて、得意揚々、満足そうに家に持って帰った。その日はちょうど霧雨が降り、雨水が肝の血とともに地面にしみ込んでいた。またこの糾弾大会のエピソードとして、もう一つの逃亡事件もあった。三里中学教師の陳金吾は、右派分子として学校のある空部屋に監禁され、次の日の三里の市の日に、引き回してから殺して食べられる予定だった。そのとき、運よく、中学の、同じ右派分子の炊事係・楊光槐の妻にひそかに縄を解かれ逃げ出したのだった。しかし、陳金吾は慌てふためいて逃亡したものの、髪の毛が鮮明な十字に剃られたままなのでどこへも逃げることができない。
実際、彼は逃げ道がなくなっていた。ちょうど、彼は武宣中学から出て釆たところを、武宣農場の民兵に捕えられた。 農場の謝開年武装部長は朝鮮戦争に参加した軍人で、湖南省の人であった。陳は謝開年から尋問を受けている間、彼のなまりが湖南人に似ていることに気づいた。そこで陳はひざまずいて「自分も湖南人である。救ってくれ」と哀訴した。謝は彼に同情して、一計を案じた。陳は空からもぐり込んだ特務工作員であると偽って告白して、県武装部の監獄の中に入れられたのだ。
この特務工作員事件が偽りであるとはっきりしたころ、人食い風潮も過ぎ去った。陳金吾は幸いにして生き残ったのである。陳は謝開年によって監獄に入れられたわけだが、おそらくこのことを終生、忘れられないだろう。読者諸君は、おそらくまだあの男性性器を食べることによって、共産党中央から怒られた革命委員会・王文留副主任のことを忘れてはいないであろう。私は政府関係資料の中で、つぎのような簡単な資料を見つけた。一九六八年七月十日、殺人と食人の嵐の中で、東郷区の中で三人の小派の人間が駕馬山に逃げた。東郷区武装部長・兼糾寮隊長、覃忠蘭は、糾察隊三隊、および金崗郷民兵隊に命令して、山狩りを行なった。逃亡者のうち、一人は逃亡し、一人は洞穴に落ちて死亡し、一人は撃たれて死亡した。そのとき、この人物は刀で心臓と肝臓をえぐり取られ、竹網に入れられ、背負われ、区役所に帰ってきて、その晩、糾察隊員によって区役所の炊事場で煮て食べられたのだった。
このとき、女子民兵・王文留は、ふた切れの人肉を家に持って帰り、彼女の母に食べさせた。王文留は人肉を食べたことによって、共産党から認められ、だんだんと地位が上がり、最終的には武宣県革命委見合の副主任になったわけである。
近来の中国の進歩的文化人が官吏、つまり役人の出世を非難する場合は、つねに〝血塗られた冠″という言葉を使ってきた。しかし、それは王文留、および武宣県の幹部たちに対してはふさわしくない用語であろう。彼らは人殺しから出世しただけではなくて、人間を食って出世したからである。
(引用ここまで)
人肉宴会が行われた、文化大革命
■毛沢東が、権力回復の為に起こした政治闘争。内戦。
■学生をあおり、軍隊を出し、教師など知識人や、中国国民党と関わりのあったものを言いがかりを付けてリンチ。1000万人~3000万人を虐殺。
■孔子や文化財を否定、破壊する極端な「左」傾偏向主義運動に発展。
■朝日新聞は、これを褒め称える記事を書いていた。日本の学生運動も、これの影響を受けている。
■文革の頃、たくさんの人肉食記録が残っている。
■知識人などに「階級の敵」とレッテルをはり、糾弾集会をみんなで切り刻んで喰った。そんな事が流行った。
■中国・広西省武宣県では文化大革命の間に、共産党の迫害によって死んだ人間は524人。その内、食われた者は百数十人。
武宣県において食人行為を行った者は推定1万~2万人にのぼる。
■1968年7月1目、武宣県の桐嶺中学副校長・黄氏は、糾弾大会につるし上げられ殺された。学校の食堂や廊下、区役所の炊事場でや教員宿舎や女子学生宿舎で、人肉を煮たり焼いたりしての人肉料理の宴会が行われた。

文化大革命でのリンチの写真
関連記事
文化大革命の真実
中国の歴史上、人肉宴会は珍しいことではない
参考サイト
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/177.html
例:17世紀半ば、張献中が四川を食い尽す
■反乱軍を率いて四川省を占領した張献中(チョウケンチュウ)は僅か数年で、当時600万人の四川の人口をほぼ絶滅させた。
■山奥に逃げ、難を逃れた者はわずか1万8千人程度。
■大殺戮の過程で、食料不足が発生すると、殺した住民たちの首を切り捨て、その体は豚肉や羊肉のように大なべで調理し、兵士の食料とした。
■住民が残り20万人程度となったころ、次の食料を求めて軍を移動する。
■張は、残り20万人の住民全員を、燻製や塩づけの兵糧とするよう兵士に命じた。
■成都の街全体が「人肉加工場」に化した。
中国の歴史と人肉食
■中国の史書にたくさん残されている。自分の肉を親に食べさせるというような孝行話が多い。
■紀元前1100年ごろ、殷の紂王が、伯邑考をスープにして、それを父にたべさせた。
■618年、朱粲は「酒を飲んだ後の人間の味は、ちょうど粕漬けの豚に似ている」 (『唐書』朱燦伝)
■882年、黄巣の乱で賊は人々を捕らえて食用にした。一日ごとに数千人をも食べてしまった。(『唐書』黄巣伝)
■902年、人肉市場では「市中人肉を売る、斤あたり百銭(文)。犬肉は五百銭」(『資治通鑑』唐紀)
■1126年、人肉市場では、一斗の米が数万銭、人肉は豚肉よりも安く、若い男の死体が一万五千銭で買えた。
■1587年に書かれた「本草綱目」という漢方薬の本に、「人」の項目が。骨、陰毛、精液、ふけ、大便、尿など。
■1644年、張献忠という盗賊が四川省を占領、3年間で四川省の人間はみんな食べられて全滅。四川大虐殺では人口600万だったのが1万8000人に。
■1894年、殺人鬼アルバート・フィッシュの手紙「清の人肉市場では、ポンドあたり1~3ドル。12歳以下の子供たちは全て食べ物として売られていた。Cはそこで人肉を覚えた。」
■1965年、文化大革命。白昼堂々人肉宴会が行われ、生徒が教師を食べた。百余の死体が香港に漂流して有名になった。。
■現在も、田舎では胎児のスープ(嬰児湯)が滋養強壮の為に食べられている。
「レイプ・オブ・南京」で、アイリスチャンの書いた「日本兵が人肉餃子をつくる」という所が、自分の国の文化からきている嘘というのがわかる。
参考書
■食人宴席
■支那人の食人肉風習 桑原隲藏
■『中国の崩壊が始まった!』
■ブライアン・マリナー (平石律子訳)『カニバリズム 最後のタブー』(1993年、青弓社)
■K. R. Chong, Cannibalism in China
■『呪われた中国人』(カッパ.ブックス)
■「戦争の歴史 日本と中国」(黄文雄 WAC 二〇〇七年)
■魯迅『薬』
(コメント)
文化大革命についての第二弾の記事になるが、温厚な日本人からすると非常にショッキングな内容になっている。しかし、今後、中国人と付き合っていく上で、相手の歴史を知ることは重要であり、日本人とは根本的に思想や人間性が異なるということを理解しなければいけない。
日本人は犬猫はもちろん牛馬でさえ、仏教的な憐れみの思想から(天皇の勅令によるとも言われている)、明治維新に至るまで、一般的に食することはなかった。もちろん飢饉などの極度の飢餓状態では、食べられるものは何でも食べたと記録されているが、それでもあからさまに人肉を食べたという記述はほとんどない。
中国での日本軍の仕業とされている大虐殺はほとんどが捏造であり、日本人には大虐殺の歴史もないので、いかに戦地であってもそんなことを行う理由がない。もちろん人肉食の伝統もないし、補給が足りている状態でそんなことをする日本兵は一人もいないと断言出来る
一方の中国軍は民衆を虐殺、略奪し、時に食料として人を食らうのが伝統であり歴史であった。現在の中国が反日教育を徹底して行っているのは、そうしないと国家が維持出来ないためであり、まさか自国の政府が、日本軍の数十倍、数百倍、自国民を虐殺していたなどと国民に知られてはまずいからである。
リンク先の記事を読んでもらうと分かるが、中国には人肉用語や人肉メニューが伝統的に存在しており、まともな感性の日本人には悪夢としか思えないようなことが書かれている。先日も、中国で作られた人肉カプセルの話題がニュースで報道されていたが、これなども氷山の一角であり、中国人からすればごく普通の出来事なのではないだろうか。
日本の団塊世代の左翼の一部で、文化大革命を神聖視する人間もいるが、いかに彼らが学校の勉強以外で間抜けで白痴で愚鈍かが分かるだろう。民主党の仙谷由人は、政権交代を例えて「政治の文化大革命」と発言したことがあるが、聞きようによってはとても恥ずかしい発言である。本当に日本で文化大革命が再現されたら、教師や弁護士、国会議員、すなわち日教組や日弁連、共産党以外の政党などは真っ先に粛清の対象になるのに、その彼らが文革を崇めているのだから、笑えないブラックジョークとしかいいようがない。日本に生まれた彼らは幸せであり、とても幸福である。彼らの幸多き人生に乾杯したい。


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