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Date : 2011年04月03日

東日本大震災にまつわるちょっといい話

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佐藤山

手作り避難所、70人救った 10年かけ岩山に 東松島 2011年3月11日 asahi.com

佐藤山
70人もの人命を救った私設避難所の通称“佐藤山”

「津波なんてここまで来るわけがない」。そう言われながら、約10年がかりで岩山に避難所を造った男性がいる。700人以上が死亡した宮城県東松島市で、この場所が約70人の命を救った。

東松島市の野蒜(のびる)地区。立ち並ぶ高さ30メートルほどの岩山の一つに階段が彫られ、登り口に「災害避難所(津波)」と書かれた看板があった。お年寄りでも上れるように段差は低く、手すりもある。平らになった頂上には、8畳の小屋とあずま屋、海を見渡せる展望台が立てられていた。

近くに住む土地の所有者、佐藤善文さん(77)が10年ほど前から、退職金をつぎ込んで1人で造った。「避難場所は家からすぐの場所になくちゃってね」。住民には「佐藤山」と呼ばれていた。

地震があった11日、佐藤さんが4人の家族と犬を連れて登ると、すでに40人ほどがここに避難していた。津波は「ブォー」と膨れ上がって押し寄せ、立ち木や家屋がなぎ倒される音がバリバリと響いた。

いったん波が引いたあと、「第2波には耐えられない」とさらに人がやってきた。「線路の辺りで波に巻き込まれた」という傷だらけの男性など4人も流れ着き、避難した「佐藤山」の人々が棒を差し出して引っ張り上げた。避難者は70人ほどになり、お年寄りやけが人は小屋でストーブをたき、男性陣はあずま屋でたき火をして夜を明かした。

夜が明けると、1960年のチリ地震による津波でも床上浸水だった周辺は、流失した家屋やがれきで埋め尽くされていた。避難した遠山秀一さん(59)は「『ここには大きな津波は来ないよ』と佐藤さんの作業を半ば笑って見ていたけど、先見の明があった」と感謝する。

一方、周辺では指定避難場所も津波に襲われ、多くの人が犠牲になった。佐藤さんはこれまで「大きな津波は、建物ではダメ。高台に逃げるのが鉄則」と市に訴えたこともあったが、「佐藤山」は指定されなかった。

佐藤さんは「老後の道楽も兼ねて造った避難所で一人でも多く助かってよかった」と喜ぶ一方、「もっと多くの人に『ここに逃げて』と伝えられていれば」と悔しさもにじませる。

「佐藤山」には、もともとあった山桜のほか、しだれ桜や数々の山野草が植えられている。津波に襲われた登り口付近の梅の木は、地震後に白い花を満開にさせた。「早く平和な日常が戻るように」。佐藤さんは、様変わりした野蒜地区を見てそう祈っている。


市議の遺言

市議の「遺言」、非常通路が児童救う 津波被害の小学校 2011年3月29日 asahi.com
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児童の脱出後に、越喜来小学校にも津波が押し寄せた。

岩手県大船渡市の海沿いの小学校に、津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。昨年12月、念願の通路ができた。市議は東日本大震災の9日前に病気で亡くなったが、津波にのまれた小学校の児童は、通路を通って避難し、助かった。

海から約200メートルのところにある越喜来(おきらい)小学校。3階建ての校舎は津波に襲われ、無残な姿をさらしている。校舎の道路側は、高さ約5メートルのがけ。従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。

「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、地元の平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求める発言が記録されている。

親族によると、平田さんは数年前から「津波が来た時に子供が1階に下りていたら間に合わない。2階から直接道に出た方が早い」と話すようになったという。

平田さんの強い要望をうけたかたちで、昨年12月、約400万円の予算で校舎2階とがけの上の道路をつなぐ津波避難用の非常通路が設置された。予算がついた時、平田さんは「やっとできるようになった」と喜び、工事を急ぐよう市に働きかけていた。

11日の地震直後、計71人の児童は非常通路からがけの上に出て、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。遠藤耕生副校長(49)は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話す。

市教育委員会の山口清人次長は「こんな規模の津波が来ることは想定しておらず、本当に造っておいてよかった。平田さんは子供のことを大事に考える人でした」と話した。

非常通路から避難した児童の中には、平田さんの3人の孫もいた。平田さんの長男、大輔さん(38)は「人の役に立った最後の仕事に父も満足していると思う。小学3年の息子にも、大きくなったら話してやりたい」と語った。


新任巡査の活躍

止まった電車に迫る津波…新任巡査、乗客40人誘導 2011年3月31日 YOMIURI ONLINE
新地駅 脱線
乗客の避難後、列車は大津波で脱線した。

東日本巨大地震直後の津波では、新地町でJR常磐線の電車が脱線・転覆したが、乗客約40人は津波が押し寄せる直前に逃げ、命を取り留めた。偶然、電車に乗り合わせ、乗客を約1キロ・メートル先の高台まで避難誘導した県警相馬署の新任巡査、斎藤圭さん(26)と吉村邦仁さん(23)の2人が28日夜、取材に応じ、当時の状況を振り返った。

2人は昨年9月に相馬署に配属。今年1月から、福島市で県警察学校の初任補修科の研修を受け、地震当日の11日は午前中卒業式に出席し、JR福島駅から相馬駅に向かう車中だった。

大津波で脱線した電車(左)。右下は新地駅(12日、新地町で、本社機から)=上田尚紀撮影  二つ手前の新地駅に停車していた午後2時46分、巨大な揺れに襲われた。「長くて強い揺れで、ただただ驚いた」(吉村巡査)という。

2人はけが人がいないか確認して回る間に、乗客の携帯電話のテレビで大津波警報の発令を知り、「ここは危ない」と判断。乗客に、電車を降り、新地町役場付近の高台を目指すよう呼びかけ、吉村巡査が先導した。

斎藤巡査は、最後尾の足の不自由なお年寄りらに付き添ったが、200~300メートル後ろから、「ゴボゴボ」という音とともに車や民家を押し流して迫ってくる濁流に気付いた。運良く軽トラックが通りかかり、お年寄りらと一緒に荷台に乗せてもらって逃げ切ったという。

斎藤巡査は「怖かったが、警察官の使命感で動いた」と振り返り、吉村巡査は「行方のわからない方がまだいらっしゃる。住民の力になれるよう頑張りたい」と、今後の捜索活動に意欲を示した。


杉良太郎はガチで漢だった

杉良太郎、車両12台で宮城へ 大規模炊き出し&物資配布で被災地支援 2011年3月31日 オリコン
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俳優で歌手の杉良太郎(66)が、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市雄勝町で炊き出しおよび物資支援を行うことが31日、わかった。夫人で演歌歌手の伍代夏子(49)や事務所のスタッフら総勢24名で、あす4月1日早朝に都内を出発し被災地へ向かう。

自らも阪神・淡路大震災(1995年)で被災し、同震災や新潟県中越地震(2004年)で精力的な被災地救援活動を行ってきた“杉様”が、今度は宮城支援に立ち上がった。

宮城県・村井嘉浩知事と面識のあった杉は24日、被災者や支援者を見舞うため直接電話し、知事代理の三浦秀一副知事と会談。甚大な被害状況を聞いた杉は「支援物資が届きにくい地域に足を運び、支援の手を差し伸べたい」と温かい食べ物の提供と物資等の支援を約束した。

今回、杉が支援活動を行う雄勝町は、宮城県内でも特に津波による被害が大きかった町の一つ。同町の家屋約1600戸のうち8割が全壊。今でも電気、ガス、水道、電話回線などのライフラインは全滅状態で、14ヶ所の避難所に1803名が避難しているといわれる。

変わり果てた同町に“温もり”を届けるべく、車両12台(20トントラック2台、タンクローリー車1台、冷蔵・冷凍車2台、車7台)に水2トン、男女下着類4000枚、歯みがきセット1万セット、入れ歯洗浄剤500個、クレベリン業務用セット2000セット、だるまストーブ21台、石油ストーブ8台、灯油・ガソリンなど、大量の救援物資を搭載する。

現地では、カレーライス5000食、豚汁5000食、野菜サラダ3000食を被災者に提供予定。デビュー前の下積み時代、カレー店に住み込みで2年間働いていたという杉自身がカレーライスを味付けし、夫人の伍代が豚汁をふるまう。支援が遅れている同町で炊き出しが行われるのは初めてとなる。

杉ら一行は、車中に寝泊りしながら現地に3日間滞在予定。避難所をできるだけ細かく廻って、炊き出しと救援物資を届けたいとしている。


226 名前:名無しさん@涙目です。(catv?)[sage] 投稿日:2011/03/31(木) 20:31:44.38 ID:YF7PoJbK0
インタビューで「偽善とか売名と言われることもあると思いますが…」と聞かれて、
「ああ、偽善で売名ですよ。偽善のために今まで数十億を自腹で使ってきたんです。私のことをそういうふうにおっしゃる方々もぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ」
と啖呵切ってて迫力あった。


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杉良太郎さんが炊き出し=カレーで被災者励ます-宮城 2011年4月2日 時事ドットコム

炊き出し1

杉炊き出し

俳優の杉良太郎さん(66)が2日、東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県石巻市雄勝町大須の避難所を訪れ、炊き出しをした。杉さんはカレーなどを振る舞い、「今は泣いて休んでもらって、ここから前に踏み出していってほしい」と被災者を励ました。 杉さんは阪神大震災の際にも被災地入りし、生活物資を配るなど被災者の支援活動を行った。同日は、歌手で妻の伍代夏子さん(49)も手伝い、1000食分のカレーライスや豚汁を調理した。

避難所の同市立大須小学校には被災者約600人が集まり、温かい手作りの食事を味わった。会社員阿部桂子さん(58)は「震災後はおにぎりやパンだけで、温かい食事は久しぶり。本当においしい」と涙ぐんだ。杉さんは、支援物資などを積んだ車12台で1日に宮城県入り。3日までに5000人分の食事のほか、下着や歯磨きセットなどの生活用品などを配る予定という。


(コメント)
菅内閣の面々は、東京のオフィスで仕事をするのにわざわざ作業着を着てテレビに映っているが、今は騙される人間が多いとしても、後々、政治的なパフォーマンスの好例として笑い者にされることは間違いない。枝野官房長官も記者会見で作業着など着る必要性は全くなく、政治パフォーマンス以外の意味を持たないのが現実である。

民主党政権で政治家の腐敗と無能ぶりが頂点に達している反面、在野の一般人が今回の大震災において大きな働きをしてくれたのは不幸中の幸いだったのかもしれない。記事で紹介させていただいた皆さんは、襟を立ててコンビニに視察に行ったり、大阪にボランティアの勉強に行ったりする大臣よりは遥かに立派な人達であり、いかに民主党の議員達がアホ揃いか良く理解出来るだろう。

今日の新聞の一面に、「首相、復興地にエコタウン構想」というようなことが書いてあったが、未だに救援活動が続いていて、原発が放射能を撒き散らしている最中に、菅直人は聞こえの良い大風呂敷を広げて支持率アップでも期待しているのだろうか。こんなことを報道でアピールする新聞社も新聞社だが、マスコミの民主党擁護の姿勢は凄まじく、民主党が政権を取ってから、ブレだとか失言だとか、任命責任だとかいう言葉はあっという間に死語になってしまった。首相の美食、飲み歩きも全く問題にされなくなった。麻生・安部政権の時のマスコミの発狂ぶりは一体なんだったのか、背筋が寒くなる思いである。

民主党に都合の悪い事実はテレビでは極力報道しない、この事実を理解するようになるとテレビ局の情報操作の恐ろしさを実感せざるを得ないが、テレビで放送する避難所も、物資が行き届いている避難所がほとんどであり、年寄りが凍死したり一日の食事がおにぎり一個とかいう避難所はテレビでは存在しないことになっているようだ。

選挙対策なのか、菅首相は極左の辻元やレンホウ、仙石などを震災関係の大臣にしているが、杉良太郎を震災支援大臣に任命して資金と人員を与えた方がよっぽどいい仕事をしてくれることだろう。今必要なのは、下らない政治パフォーマンスではなく、細部まで行き届いた救援であり、閣僚の作業服姿ではなく一皿の温かいカレーライスが必要とされているのである。民主主義の国家では、国民は自分達の民度を超えた政府を持つことは出来ないと言われているが、今のゴキブリ内閣のゴキブリ共はあまりに酷いと言わざるを得ない。


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被災民が政府の対応不足で苦しむ中、東京の政府オフィスで終日仕事をするにもかかわらず、作業服姿で政治パフォーマンスを行う菅首相とその閣僚。彼らの人間としての羞恥心は一体どちらの方向を向いているのだろうか?

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