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日本が好きなだけなんだよ

Date : 2010年12月25日

2011年に大災害が発生する可能性

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猛暑と大地震


○関東大震災(1923年)
東京で当時の平均気温をはるかに上回る35.1度を計測。

○阪神大震災(1995年)
前年の1994年、全国的に早い梅雨明け後、全国的に平年を1-2℃上回る観測史上最高の猛暑となった(2010年に記録が破られる)。


(2010年の夏は観測史上最高の猛暑)

6月-8月の夏全体として全国平均気温は平年比+1.64℃となり、1994年(平成6年)の平年比+1.36℃を上回る観測史上最高気温を記録。全国154地点中11地点で夏の猛暑日日数が過去最高、11地点で夏の真夏日日数が過去最高、41地点で夏の日最低気温が25℃以上の日数が過去最高だった。熱中症で亡くなった人は5月31日から8月30日までに最低でも496人に達し、戦後最悪を記録。多くの農産物・畜産物・海産物で生産量が落ちる被害が出た。

猛暑と地震の因果律  2010年8月25日 この者に天のご加護を

1923年8月、この年の日本、特に東京の気候は異常な高温と、連日発生する雷や正体不明の発光現象で尋常ならざるものとなっていたが、人間の感覚とはおかしなものだ、それが1度のものなら3日もすればほとんどの人がすべて忘れ、異常なことでも毎日続けばそれに対する異常性が失われる。1923年に起こった関東大震災では、地震発生前に多くの異常がありながら、苦しい生活に追われる大人たちは、その異常を異常として捉えることができなかった。それゆえ関東大震災前にもっとも「何かとんでもないことが起こるのではないか」と感じていたのは、実は多くの子供たちだったのである。

「柏木みやの」さん(旧姓)は当時9歳だったが、両親の都合で1年間ほど品川の叔父夫婦の家へあずけられ、彼女はそこで1922年7月から、1923年8月28日までを過ごす事になるが、このとき1923年8月に起こったことは一生忘れないと話している。

8月半ば過ぎごろから、裸でいても蒸し暑くていられないほどの天気が毎日続き、その上いつも夕方6時ごろになると、大して天気が悪くも無いのに、空から太鼓を打ち鳴らすようなドーン、ドーンと言う音がやはり毎日聞こえ、湿度なのか汗なのか分からないが、いつも夕方には着ている服がずぶ濡れになった。それで叔父夫婦にもこのことを話したのだが、彼らの返事はいつも「ああ、そう」でしかなく、そうこうしている間に両親が迎えに来て彼女は福島へ帰るのだが、彼女たちが福島へ帰ってから3日も経たない間に関東大震災が東京を襲ったのである。

また当時横浜鶴見に住んでいた「新澤喜三郎」さんは当時10歳だったが、とにかく暑い日が続き、それが夜になると今度は蒸し暑さになってきて、さらに夕方7時か8時ごろになると、いつも必ず雷のような音がして、でもおかしなことにはこの雷、外へ出てみると、空の一点からまるで水面に石を投げたように光が広がっていくことで、真っ青な光だった。それが8月20日過ぎごろから毎晩続き、喜三郎さんの両親もそれを見て不思議がっていたが、やがて両親はこうしたことが毎晩続くことから、しまいには見に出る事も無くなった、しかし喜三郎さんは子供ながらに実に異常な光景だった・・・、と話している。

そしてこれは1995年に発生した「阪神淡路地震」(阪神大震災)だが、この地震は1月17日に発生しているが、この前年の1994年、日本は大変な猛暑に見舞われ、その猛暑による経済効果が1兆円とも言われた、記録的な暑さだった。また1995年1月の神戸の気温は、最高で17度と言う気温の日があり、明らかに1月とは思えない気温の高さが地震発生の前には観測され、人々もどこかで「何かおかしい」と思いながら暮らしていたのである。

さらに2007年の能登半島地震、ここでも前年の2006年は北陸が大変な猛暑に見舞われ、能登半島地震は3月25日に発生しているが、神戸と同じようにやはり例年だと積雪があるはずの能登半島は、1月、2月と温暖な天気が続き、住民は「もしかしたら大きな地震でも来るのではないか」などと話していたのである。

1923年、関東大震災をその年の1月から予言していた易学者「小玉呑象」(こだま・どんしょう)は、その著「地震の予知」でこう語っている。「地震が起こるときは、温暖な気候のものなり」1703年「元禄地震」、1707年「宝永地震」、1828年「越後三条地震」、1847年「善光寺地震」、1854年「安政東海地震」、同じく1854年「安政南海地震」、1855年「安政江戸地震」、1923年「関東大震災」、いずれの場合でも地震が発生する前には「暑さ」が関係している。

そしてこのことをして間違いなく地震が来るとは言えないが、統計上暑い気候の年や、その半年後には大きな地震が起こっていることもまた事実であり、多くの地震でその現象が確認されている雷のようなドーン、ドーンと言う音だが、これも気象庁は因果関係が確認できないとして、地震の前兆現象とは認めないが、多数の日本人が確認している事実であり、少なくともこの雷に似た「音」ぐらいは、地震の前兆現象と認めるべきものだと私は考える。

9月1日は「防災の日」だが、これは関東大震災が1923年9月1日、正午近くに発生し、東京が火の海となって10万人以上の人が、焼け死んでしまったことを教訓とするものだ。防災で大切なのは科学的であるか否かではない、すなわち「生き残るためなら科学でも、例え迷信や言い伝えを使ってでも良いから、何としても生き残る」、このことに尽きる。

最後に、1923年、関東大震災が発生し東京が劫火に焼かれた直後、当時の文壇の著名人、芥川龍之介、田山花袋、生田長江、竹久夢二などは一様に同じ感想を述べているが、それは基本的に「そら見たことか・・・」と言う言葉である。国家は堕落し、政治も腐敗の極みを向かえ、人々の心は拝金主義によってモラルを失った大正末期の日本、彼らの目には極限を超えた堕落は、もはや人間自らによっての自浄能力ではいかんともし難く、救いは巨大災害しかなかった、そのような壮絶な見識が感じられる。

2010年、この暑さと、そしてこの日本の在り様である。
何も無いことを祈ろうか・・・。



戦後の日本では、自民党在籍経験のない極左政治家が首相になると大勢の国民が天災で死亡する

○片山内閣(1947年5月24日~1948年3月10日)
衆議院議員・日本社会党委員長の片山哲が第46代内閣総理大臣に任命される。この時代、自民党(自由民主党)はまだ結成されていなかったが、自民党のルーツの一つとなった日本自由党は存在していた。麻生太郎の祖父・吉田茂などが日本自由党に在籍していたが、片山哲に在籍経験は無い。

カスリーン台風が1947年9月に発生し、関東地方や東北地方に大きな災害をもたらした。死者は1,077名、行方不明者は853名、負傷者は1,547名。その他、住家損壊9,298棟、浸水384,743棟、耕地流失埋没12,927haなど、罹災者は40万人を超えた。

○村山内閣(1994年6月30日~1995年8月8日)
衆議院議員・日本社会党委員長の村山富市が第81代内閣総理大臣に任命される。

阪神大震災が1995年1月17日に発生、死者:6,434名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名 被害総額は約10兆円規模に及んだ。

○菅内閣(2010年6月8日~)
衆議院議員・民主党代表の菅直人が第94代内閣総理大臣に任命される。菅の所属政党の経歴は社会民主連合→新党さきがけ→民主党。

記録的猛暑による熱中症死者が全国で496人に達し、戦後最悪の結果となった。農作物等にも多大な被害。

熱中症死者、全国で約500人=戦後最悪の猛暑が影響-時事通信集計 2010年8月30日

全国の広い範囲で梅雨明けした7月17日から8月30日までに、熱中症がきっかけとみられる死者が全国で少なくとも496人に上ることが31日、消防や警察、自治体に対する時事通信社の取材で分かった。気象庁の統計で、8月の平均気温がほぼ全国で戦後最高を記録する猛暑となったことが影響した。9月も厳しい残暑が続く見通しで、同庁などは引き続き注意を呼び掛けている。 この死者数は、2004年の新潟県中越地震や台風23号による死者・行方不明者をはるかに上回る。

(コメント)
不思議なことに、日本では戦後、自民党在籍経験のない極左の政治家が首相になると、国民が天災で大量死する変事が続いている。細川護煕、鳩山由紀夫など、非自民党政権の首相であっても、首相に自民党在籍経験があると天災は起こらず、逆に村山富市のように、自民党が参加する連立政権であっても、首相に自民党在籍経験がないと、天災で大勢の国民が死亡する事態が、ほぼ確実に起こっている。

当ブログは、他にまともな政党が存在しない都合上、開設当初から原則的に自民党支持という立ち位置だが、無理やり持ち上げた結果ではなく、事実を積み重ねた結果、『戦後の日本では、自民党在籍経験のない極左政治家が首相になると大勢の国民が天災で死亡する』という結論に至った。現行の菅内閣では既に、猛暑という天災で約500人が死亡しており、早くも条件を満たす結果となっている。片山内閣当時は自民党はまだ結党されていなかったが、自民党のルーツとなった日本自由党が存在しており、自民党に代えさせていただいたので、その点はご了承願いたいと思う。

猛暑と地震の関係は不確定な部分も多いが、阪神大震災の前年が記録的猛暑であり、今年の夏がそれを上回る猛暑であることを考えれば、やはり地震との関連を疑ってしまうのが人情というものだろう。来年は非自民系の極左首相と猛暑の影響という、二つの要因が重なることになり、大地震が起こる可能性が極めて高まると言わざるを得ない。

民主党が政権にいる間は何が起きても不思議ではないが、菅直人と民主党には国民を守る能力と意志が不足しており、今の政権で大災害が起これば、政府の不手際によって、被害は無駄に拡大するだろう。結局、自分や家族の身は自分達で守らなければならない。読者の皆さんも防災の準備には多少なりとも留意するよう、ご助言申し上げる次第である。

(おまけ:ゆきゆきて一般参賀)
恥ずかしながら今まで皇居での一般参賀には参加したことがなかったのですが、先日の天皇誕生日に生まれて初めて一般参賀に行ってきました。少しその経験を書いておきたいと思います。

まずは早朝に家を出て私鉄とJR線を乗り継ぎ、JR西日暮里駅で都営千代田線に乗り換えて二重橋前で下車。そのまま皇居方面に向かっていくと、警察が身体検査をしているテントが並んでいるのが見えてきます。一般参賀に参加する人は全員、ここで持ち物検査とボディーチェックを受けることになります。

ボディーチェックを受ける前に、入り口付近で日の丸の小旗を配っている人達に遭遇すると日の丸の小旗を貰えますが、うっかりもらい忘れると、日の丸なしで参加する羽目になります。複数箇所で配ってるようなので、入り口にいないようなら、他で見つけて何としても日の丸をもらいましょう。

自分はうっかり日の丸を貰い忘れて慌てて一度退場し、出口付近で日の丸を回収しているボーイスカウト達から一本もらいました。そして再び迂回して入り口に戻り、今度こそお出ましを拝見するために勇んで皇居の宮殿広場へ。

なんとか11時のお出ましには間に合いましたが、大変混雑していて両陛下や秋篠宮両殿下が50メートル位先で、あんまり良くは拝見出来ませんでした。そうこうしているうちにお出まし時間が終わり、ゾロゾロと退場が始まりました。警備の警察官の人に聞いたら、そのまま広場に残っていても良いとのことなので、最後のお出ましをもっと近くで拝見するために広場に残ることに。

トイレもあったのでとりあえず用を足し、待つこと40分。11時40分のお出ましで、今度は20メートルくらいの距離で両陛下と秋篠宮両殿下を拝見し、天皇陛下からありがたいお言葉をいただき、夢中で小旗を振ってお出まし時間が終了しました。

終わった後には何とも言えない満足感があり、これはちょっと言葉では表現出来ない類のものかもしれません。強いていえば日本人であることへの深い満足感とでもいいましょうか、ここで説明するよりは実際に体験してもらった方が早いのではないかと思います。

両陛下の御姿もさることながら、秋篠宮両殿下の御姿が美しく、シルエットがまさに麗人貴人という印象で、なんかずんぐりむっくりして黒ずんでいた皇太子夫妻とは対照的なように思えました。「ああ、まさに皇室の明暗だよなあ」と内心思いつつ、横目で皇太子夫妻をチラ見していたことを思い出します。

地方から観光バスでやってきた年配の方達や、親子連れ、カップル、若い女性の姿が見受けられました。外国人観光客も結構いて、彼らも日の丸を持って振ってくれていました。

皇居を出て列になって歩いて行くと、出口付近で、普段は皇居内の売店で売っている皇居名物を販売しており、菊最中だとか皇居参拝記念メダルだとかが売られていました。ここで財布からお札に羽が生えて何枚か飛んでいき、自分の一般参賀は終わりとなりました。

偶然にも自分は天皇陛下77歳の喜寿の御誕生日に参拝出来て幸運でしたが、世界最古の歴史を持つ、我らが天皇陛下に拝謁出来る機会はいつであれ貴重なものです。皆さんも日本人として、機会があれば是非参加してみることをお勧めします。

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