白人侵略の終着点・日本の対応②

白人侵略の終着点・日本の対応②
侵略の世界史 ~この500年、白人は世界で何をしてきたか~
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白人侵略の終着点・日本の対応①
来るべき白人侵略に、着々と手を打っていた江戸時代
江戸中、後期になると社会の繁栄と、平和のゆとりが新学問を一挙に興隆させた。それは儒学と国学と洋学に大別できる。儒学は幕府の御用学問として栄え、朱子学と陽明学に多くの逸材が輩出した。儒学は支那発の漢学であるが、賀茂真淵や本居宣長は古事記や万葉集、源氏物語の研究から、日本の本質、原点を究明する国学を大成した。宣長は従来の儒教、仏教の教えを「からごころ」「ほとけごころ」として排斥し、「やまとごころ」こそ至高のものと説いた。
「敷島の大和心を人問わば朝日ににほふ山桜花」
水戸光圀は『大日本史』の編纂に着手し、儒学の一派で水戸学を大成した。これは天朝の尊厳を説き、幕末尊王論の源流となった。水戸の英明な藩主、徳川斉昭の時代には『新論』を著した会沢正志斎や藤田東湖などの憂国の学者を生んだ。水戸学は日本学ともいわれ、幕末に活躍した勤王の志士たちは、吉田松陰、坂本龍馬、橋本左内、佐久間象山など、すべて一度は水戸藩の藩校である弘道館で学んでいる。儒学は「覇道」を説くが、水戸学は皇国の「王道」を力説する。萩の吉田松陰は初めて水戸学に接して感動し、大和魂や武士道の本質を体得するのである。それが止むにやまれぬ憂国の実践行動として海外密航につながり、その精神はやがて、松下村塾の教え子達に乗り移り、明治維新の回天の偉業の原動力になっていったのである。
次は洋学である。戦国時代から西洋の学統は南蛮学と呼ばれ、好奇心、勉学精神の強い日本人に注目されていた。鎖国後も長崎の出島を通して、オランダの学問・蘭学が多いに発展していた。蘭学は、18世紀後半に前野良沢、杉田玄白らによる『解体新書(ターヘルアナトミア)』の出版で基礎が確立し、医学の分野を中心として発展した。さらに蘭学は、天文学、地理学、化学、植物学などの自然科学の諸分野に、著しい発展を促した。幕府も洋学所(蕃書調所)を設け、奨励した。中でも伊能忠敬は、日本で初めて正確な実測による日本地図を完成した(『大日本沿岸與地全図』)。
18世紀の初めになると、ロシア人が千島に南下し、蝦夷地に出没するようになった。寛政の三奇人の一人林子平は『海国兵談』を著し、海防の急務と説いたことは前章でも触れた。幕府は林子平の説を世を惑わすものとして処罰し、版木を没収してしまった。彼は
「親もなし 妻なし 子なし 版木なし 金もなければ 死にたくもなし」
と歌い、「六無斎」と称した。先覚者の悲哀である。以上のごとく、江戸時代は鎖国して何もせず、じっと内にこもっていたのではない。白人侵略を予感して、学問と教養を深め、武士道や大和魂で精神を練磨し、地理測量や探検、兵学で対抗する準備を着々と整えていたのである。
津和野藩出身の国学者・大国隆正は文政元年(1818年)、二十七歳の時、長崎に遊学して、オランダ通辞から次のことを聞いたと記録している(『大国隆正全集・第一巻』)
「西洋諸国の見る所では、アジアに未だ、支那、日本の二ヶ国が西洋に従はない。しかし西洋が連合して当たれば、支那は十年で料理できるが、日本は三十年かかるであろう。
日本は小国だが三つの障害がある。
一つは、人口が多く、武くして支那人のたぐひにあらず。
一つは、海岸が多く攻めにくい。
一つは、萬古一姓の天子ありて、人心これを尊ぶ心深し。
三十年で従えることが出来るであろうが、しかし、そのあと、日本国中の人間をことごとく斬りつくし、西洋から移民を送り、草木まで抜き捨て、植へかへなければ、我々西洋のものにならない。一人でも日本人を残しておけば、恢復の志を起こし、また燃え立つべし。そんな国が日本だ」と。(P229~P232)
未曾有の国難にあたり、国論を統一させたものとは
アヘン戦争から10年後、今度は東からアメリカのペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に姿を現わし、砲艦外交で開港を強く迫った。それは嘉永六年(1853年)6月3日のことであった。ペリーの来航は、幕府はもちろん、江戸市中を大混乱に陥れた。市民は初めてみる蒸気船を「黒船」と称して恐れ、避難のため右往左往し、太平に慣れた武士も、にわかに武具を備える有様であった。
「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠れず」
「武具馬具師アメリカ様とそっといい」
などの狂歌がこの間の事情をよく物語っている。
ペリーは、いったん帰国したが、約束通り、翌嘉永七年、軍艦7隻を率いて浦賀に入港、江戸湾を測量して武威を示した。幕府はその威嚇に屈伏し、同年3月3日、日米和親条約を、安政五年(1858年)には日米修好通商条約を締結させられた。
これを見て、列強のオランダ、イギリス、フランス、ロシアからも、同様の条約を締結させられた。これらの条約はいずれも相手国の治外法権を認め、日本の関税自主権を認められぬという不平等条約であった。列強が一斉に日本になぐりこみをかけてきたのである。このままでは日本は欧米勢力に呑み込まれてしまう。この国難的危機をどう乗り超えるか。ペリー来航から明治維新を迎えるまでの15年間、国内は開港か攘夷か、佐幕か勤王か、いわゆる幕末の大動乱が続くのである。民族の内部が各派に分かれて闘争し、騒然たる無秩序の時こそ、西欧列強の侵略のチャンスである。フランスは幕府を支持し、イギリスは反幕派を応援したりして動乱を煽動することにつとめた。
1858年、井伊直弼が大老に就任するや、尊皇攘夷論者への弾圧が始まり、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)ら多数の志士が、「安政の大獄」で処刑された(1859年)。文久二年(1862年)八月、薩摩藩主の父、島津久光一行が江戸よりの帰途、相模の生麦で、行列を横切った英国人数人を、藩士が斬りつけ負傷させるという生麦事件が起こった。翌年英艦は報復のため、鹿児島を砲撃した。薩英戦争である。その翌年英米蘭の4ヶ国16隻の連合艦隊が長州の下関を砲撃し、三日間で全砲台が破壊、占領された。薩摩と長州は、この戦いで列強の近代兵器の威力を存分に思い知らされた。
幕末の薩英戦争と下関戦争は、日本の初めての西欧に対する防衛戦で、しかも敗北し、身をもって列強の力に脅威を感じた。国内で日本人同士が争っている場合ではない。早く国論を統一して外患に当たらねば、日本は滅亡するという危機感に襲われた。このため坂本龍馬の斡旋で薩長同盟がなり、幕府の大政奉還、王政復古を早め、江戸城無血開城となった。そして天皇中心の「錦の御旗」の下、新政府で国論を統一し、明治維新を迎えることができた。
幕末は、日本があわや西洋勢力に呑みこまれようとする累卵の危うきにあった。これを救ったのは、各藩の下級武士たちが幕府や藩の利益を越えて、日本という国のために一致団結する必要を痛感したからである。江戸時代に培った武士道や大和魂の賜物であった。幕府の最後の将軍・徳川慶喜が尊王論の水戸学発祥の地、水戸藩から出たことが幸いしたのだ。慶喜は天朝にもっぱら恭順を示し、大政奉還をスムーズに移行させることができたからである。フランス革命なら、慶喜はギロチンで果てるはずであった。それが幕府側にも、天朝側にも犠牲者がなく、無血革命ができた。慶喜はその名の通り両勢力に喜びを与えることになった。(P234~P237)
(コメント)
明治維新を実現出来た背景の一つに、日本人が古くから皇室を尊び、日本独自の国体を守り続けてきたことが挙げられる。もし「錦の御旗」が無かったならば、日本は維新前に分裂し、欧米に付け入る隙を与えていたのではないだろうか。また、大日本帝国が欧米と互角に渡り合えたのも、皇室を中心に日本人が一致団結していたからである。外国からしてみれば、これはとても脅威であり、反面、羨ましいことだったに違いない。その証拠に戦後、反日勢力は皇室の権威を低下させることに腐心し、教育、メディアの報道で皇室を貶め続けている。反日勢力の手先としてついには雅子妃を皇室に送り込み、メディアとグルになって女系天皇の実現によって、皇室の権威の源である皇統の断絶を画策しているありさまだ。
日本人が皇室を敬う、という気持ちを持つことは、安全保障上も大きな役割を果たしてきたわけで、国家の危機に際して国論を統一させる効果も持っている。現在の自虐史観、反日教育の影響で、もはや大多数の日本人は、皇室を敬う気持ちを持っていない可能性もある。皇室と日本人の関わり、皇室の歴史をありのまま教えれば、自然と皇室を尊ぶ心が湧き出てくるのが日本人であるが、現在はそういう事実すら教えていないのが現状だ。国家は外部から滅びず、内部から滅びるとよくいわれるが、今の日本はまさにその通りの状況である。思想と情報を支配され、じわじわと平和裏に国民が腐敗し、弱体化していく状況は、有史以来、初めてのものに違いない。幕末に匹敵するような、未曾有の国難を迎えていると言っても良いのかもしれない。
江戸時代に大成した水戸学が幕末の思想的なバックボーンとなり、日本は明治維新の大業を成し遂げることに成功したが、水戸学の生みの親が水戸黄門で有名な水戸光圀であったことは興味深い事実である。テレビ番組のように諸国漫遊はしなかったが、水戸学を生み出すことによって、黄門さまは十分に日本を救う働きをされたと言っても良いのかもしれない。水戸学の影響を受けた吉田松陰の松下村塾からは多くの英傑が輩出し、その英傑達が日本を明治維新に導いた史実はあまりに有名だが、彼らに尊敬され慕われた吉田松陰が、大和魂をうたった有名な和歌が次の二句である。
かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂
(捕らえられて江戸への護送中にうたったもの)
身はたとひ 武蔵野野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
(辞世の句)
一途に国の未来を想い、我が身を顧みない松陰の無私の心に、一般ピープルの自分ですら心打たれるが、現在の反日的な国会議員や経済人、知識人、官僚、公務員に百万遍くらい聞かせてやりたい気持ちがする。高校、大学の勉強も役には立つのだろうが、道徳、倫理的にはあまり意味もなく、教員養成の国立大学で女子学生の集団暴行事件が起こるようなありさまである。慶応、早稲田といった古くからの名門大学にも、既に設立当初の志はない。田母神前空幕長を講師として招聘する大学が一つくらいあっても良さそうなものだが、そういう話も一向に聞かない。現代日本の悲劇の一つは、かつての松下村塾のような、国や国民の事を第一に考えて行動できる、日本を導く英傑を育てる私学が存在しないことなのかもしれない。

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