日本が好きなだけなんだよ

Date : 2009年06月15日

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沖縄の集団自決騒動で語られない真実

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※今回の記事は過激な内容を含んでいるので、食事中の方やショックに弱い方はご遠慮下さい。
沖縄集団自決「軍の命令ではない」 地元誌が特集記事  2009年6月10日  産経ニュース

第2次大戦末期の沖縄戦で守備隊長が住民に自決を強いたとされる「沖縄集団自決」について「軍命による自決ではなく、切羽詰まった住民が自殺した悲惨な事件だった」とする特集記事が沖縄県浦添市文化協会発刊の「うらそえ文藝」第14号に掲載され、波紋を広げている。特集には、自決現場を目撃した当時の米軍の報告書や住民の証言などが収録され、問題の発端となった地元紙、沖縄タイムス発刊の「鉄の暴風」こそが訂正すべきと結論づけている。

「鉄の暴風」で自決を強いたと名指しされた守備隊長や遺族らは、この記述を元に書かれた大江健三郎氏の「沖縄ノート」に対し出版差し止めなどを求めているが、昨年秋の2審判決では訴えが退けられ、現在、最高裁で争われている。

この特集記事を書いたのは同誌編集長で沖縄県文化協会長の星雅彦氏と沖縄戦ドキュメンタリー作家として知られる上原正稔氏の2人。上原氏は長く「鉄の暴風」を疑ったことがなく、現地調査した作家の曽野綾子氏が1973年に「ある神話の背景」で疑問を呈したさいも、軍命による集団自決を事実として信じて疑わなかった。ところが、沖縄タイムスや琉球新報などで沖縄戦に関連した連載記事を書くうちに、新たな住民の証言や米軍の報告書などを入手、「(『鉄の暴風』は)現地調査しないまま軍命による集団自決をでっち上げたという結論に達した」という。
 
上原氏によると、こうした結論を2年前に琉球新報で長期連載中の沖縄戦をめぐる記事に盛り込もうとしたところ、「新聞社側の圧力で断念せざるを得ず、『うらそえ文藝』での発表に踏み切った」と説明している。

また、星氏も沖縄県史編纂(へんさん)で40年ほど前に、集団自決事件の起きた渡嘉敷島を訪問した際、住民の話から軍命の存在に疑問を抱いたが、「鉄の暴風」が沖縄県民の間で定着し、疑問を差し挟めない状況だった。しかし、「今回は勇気を持って真実を知らせるべきと決心した」と、話している。 富田詢一・琉球新報社編集局長の話「上原氏への圧力はありません」


サイパンで米軍が行なった民間人虐殺の大蛮行

ライフ誌の表紙 日本兵 頭蓋骨
1943年5月号のライフ誌に掲載された有名な写真。アメリカ兵から記念品として恋人に贈られた日本兵の頭蓋骨。当時のアメリカ白人の日本人観は、日本人=東洋の猿 程度の認識だった。写真の詳細はこちら

我ら降伏せず―サイパン玉砕戦の狂気と真実  田中 徳祐著  立風書房

昭和19年6月15日午前8時45分、チランカノアの海岸に、約三個師団と推測される敵兵が上陸してきた。そこからサイパン島の陸上戦が始まった。当時はサイパン島には砂糖工場があり日本人も居住していた、民間人がいたことでかなり悲惨な結果になってしまった。

7月9日、このころには日本軍の組織的な抵抗は無くなり掃討戦の様相をあらわしてきた。敵は流ちょうな日本語でジャングル地帯に童謡を流し投降を促す放送を流し始めた。日本軍は組織的な抵抗は捨て、洞窟に、数人、あるいは数十人ぐらいが生き残り潜んでいた。米軍は日本人に対し、戦争が終わりサイパン島は米軍の手に落ちたこと、隠れている日本人に投降を勧めました。「投降すれば、立派な衣服や、美味しい食料も十分に与えます。もはや犬死にすることはない、今や死んでも花実は咲きません。みなさんの投降をまっています」

その後に、兎追いしかの山、と続く童謡を流し始めました。これには潜んでいた日本軍も参ってしまつた、その後、桃太郎、天然の美、荒城の月などがながされたそうです。
「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」
投降を勧める放送は再三繰り返されたが日本軍は、その放送を頭から否定した。むしろ敵愾心がわいてきたそうです。

投降呼呼び掛けの放送とはうらはらな、人道上許し難い残虐な行為をしだした。日本軍はバナデル飛行場を見下ろせる洞窟にいて、その距離1キロ位先で展開された。そこへ、三方から追われた数百の住民が逃げ込み、捕らわれた。幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ、婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理矢理トラックに積み込まれた。そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫していた。

その声がマッピ山にこだまし、次つぎとトラックは走り出し、彼女たちの声は遠ざかっていた。なんたることをするのだ、小銃だけではどうすることもできず、此方の位置もしれてしまう。この悲劇をただ見守るしかなかった。(この婦女子はその後一人として生還しなかつた)

婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供老人の悲鳴があがった。ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供達。その悲鳴。「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」の投降勧告の意味は。幼い子供が泣き叫び、絶叫する、

「おい、もう我慢ならん。撃て」
吉田軍曹が一発撃った、何の効果もなく、敵はもはや無関心。

残酷な行為は壮絶をきわめた。火から逃れ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、又火のなかへ付き返す。死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛したり、銃で突きとばしては火の海へ投げ込んでいる。二人の兵隊が滑走路際にいた、泣いている赤ん坊をみつけ、両足をもって、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。「ギャッ」という悲鳴。人間が蛙のようにまたさきにされ殺されてゆく。

彼らは、その行為を平然としてやり、大声で笑い得意げになっていた。日本軍は手を出せず、ただ合掌し霊をとむらうほかなかつた。


太平洋戦争中にサイパン島での闘いで生き残った田中徳祐大尉の著作だが、田中大尉は戦後までゲリラとしてサイパンで戦い抜き、その後、武装解除している。帰国後、本書を執筆するも、GHQの検閲ですぐには出版出来なかった。雑誌「正論」などでも引用され、資料として貴重な本だが、現在、絶版になっており、再版が待たれている。大東亜戦争中のアメリカ軍の残虐行為が表面化しないのはマスコミの報道管制によるもので、現在でも在日米軍兵士の犯罪の8割が闇に葬られるのと同様の理由である。


アメリカ軍の残虐非道

米軍捕虜虐待
1945年に報道カメラマンのフェンノ・ヤコブスによって撮影された日本兵捕虜に対する虐待写真(戦艦ニュージャージー甲板にて。世界写真全集の第3巻『フォトジャーナリズム』に掲載)しかし、この日本兵はまだ生きているだけ幸運なのかもしれない。

容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別  ジョン・ダワー著 平凡社ライブラリー

大平洋地域担当の従軍記者エドガー・ジョーンズが、四六年の『アトランティック・マンスリー』誌に書いている『われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機関銃掃射し、敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置物を作るとか、または他の骨でペーパーナイフを作るとかしてきたのだ』。ジョーンズはさらに、標的の日本兵がすぐに死ぬことがないように、火炎放射機の炎を調整するというような行為にまで言及している

一九四二年の末に出版されベストセラーとなった『ガダルカナル日記』のなかで、ジャーナリストのリチャード・トレガスキスは、日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士たちの会話を挿入している。『ジャップは金歯をたくさん入れてるんだってな。それをいただいてネックレスでも作るかな』と一人がいう。『おれは奴らの耳を持って帰るよ』ともう一人が宣言する

リンドバーグがついに大平洋諸島を離れ、ハワイで税関検査を受けたときには、荷物に骨が入っているかどうか聞かれた。それは決まりきった質問だと言われたという


孤高の鷲 リンドバーク第二次大戦参戦記 学研M文庫

以下抜粋

*各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、米兵が捕虜を取りたがらないから。手を上げて投降してきても皆殺しにするから。

*あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。残りのの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。

*捕虜を取らないことを自慢する部隊がいる。

*将校連は尋問の為捕虜を欲しがる。捕虜1名に付きシドニーへの2週間の休暇を出すとお触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入る。懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなり、つかまらなかったと嘯くだけ。

*一旦捕虜にしても英語が分かる者は尋問のため連行され、出来ない者は捕虜にされなかった、即ち殺された。

*捕虜を飛行機で運ぶ途中機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告。ある日本軍の野戦病院をある部隊が通過したら生存者は一人もいなかった。

*2年以上実戦に参加した経験がない兵が帰国前にせめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、偵察任務に誘われたが撃つべき日本兵を見つけられず捕虜一人だけ得た。捕虜は殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で軍曹がナイフで首を切り裂く手本を示した。

*爆弾で出来た穴の中に皆四肢バラバラの状態の日本兵の死体を投げ込みその後でトラック1台分の残飯や廃物を投げ込む。

*捕虜にしたがらない理由は殺す楽しみもさる事ながらお土産を取る目的。金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造る、耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、中には頭蓋骨まで持ちかえる者もいる。

*日本人を動物以下に取扱いそれが大目に見られている。我々は文明のために戦っているのだと主張しているが、太平洋戦線を見れば見るほど、文明人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。事実この点に関する成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。

参考サイト
http://www.tamanegiya.com/yuusyokujinnsyubetsi.html
http://ameblo.jp/nyaonnyaon/entry-10049567897.html


『孤高の鷲』は残念ながら絶版になってしまったが、紹介した記事の他にもひどい捕虜虐待の様子が書かれている。日本の都市への無差別爆撃や広島・長崎への原子爆弾の投下などは、当時のアメリカ白人の一般的な有色人種観から導き出された結果でしかない。原爆投下が戦争を終わらせるためというのは単なる後付の理由であり、大戦末期の日本に既に反撃する能力はないのだから、ポツダム宣言より条件を緩和した講和条件を出せば、すぐに日本は飛びついただろうが、それをしなかったのは、戦争を早期に終わらせること自体が目的ではなかったからだろう。小生意気な日本人を奴隷のように膝下に屈服させたかった、というのが本音ではないだろうか。

日本軍に対する誤解はなぜ生まれたのか

旧軍に対する誤解を解く  2005年4月23日 徒然なるままにエッSAY!

我々が旧軍を批判するときによく言われるのが、日本の軍人は「捕虜になるぐらいだったら死ね!」と言われ、多くの軍人が無駄死をしたということがある。

今回は何故そのようなことになったのか検証する。

昭和16年1月に東条英機が出した戦陣訓がある。

この中の本訓其の二の第8「名を惜しむ」に「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と言う一節があり、この「生きて虜囚の辱めを受けず」だけをとらえ拡大解釈をして、敵の手に落ちるときは死ねということが強調されてしまったのである。

では、なぜ戦陣訓というのが出たかというその背景を考えてみる。

日本軍が、世界的に評価されたのは、1900年の北清事変(義和団の乱)に義和団を制圧するために出兵したときのことである。

このとき日本と欧米の8カ国が出兵し、欧米の兵隊が略奪行為や泥棒みたいなことをして、北京市内を荒らし回っていた。

日本軍は、近代国家として始まったばかりということもあり、国際条約にも、軍律も非常に厳しかった。それによって、イギリスの新聞で「日本軍はすばらしい。これだけ軍律を守れる国は世界にも数えるぐらいしかない」などと書かれ、このときの日本軍の軍律が一級品と評価され、日英同盟の締結の大きな要因ともなり、世界中からも高い評価を受けた。

しかし、支那事変が起きて長期化していくうちに、段々と軍律は乱れてきたので引き締めの意味も込めて戦陣訓が出された。また、支那軍(中国軍)は、昔から民族性もあり、残虐な行為をする軍隊である。日本軍と支那軍が戦っているときに、日本軍の捕虜は、かなり無茶苦茶なことをやられたのである。学校の教科書に載せられていた支那婦人に対する残虐な処刑は陵遅の刑(りょうちのけい)と言って伝統的な中国の処刑のやり方であり、日本兵がやったことにすり替えた。日本人には乳房をえぐり取る発想はない。『支那民族性の解明』池田正之輔著に詳しい。

また『ワイルド・スワン』に共産党員が地主の女性達を強姦したあげくに乳房を切り落とす場面が出てくる。

彼らのやり方は生きたまま顔の皮をはがされたり、耳を削がれたり、目を刳り貫かれたり、鼻を削がれたり、手足を切断されたりしていたのである。もっとひどいのは首かせをされて宙づりにされ、自分の体重で首から抜け落ちるまでぶら下げられたりした。

支那軍が日本人街を襲った通州事件では、束にして鼻や手をぶち抜いて針金を通したり、女性を逆さ吊りにして股間に異物を突っ込んだり、妊婦は腹を裂いて赤ん坊を出したりしたという証言もある。支那大陸ではこれらが通常の姿であった。

それで日本軍としては、あまりにも残虐すぎる支那軍のやり方を見て、捕虜になってあんな無惨な殺されかたをされるのだったら、いっそうのこと腹を切ってでもその場で死んだ方がましだというところから「生きて虜囚の辱めを受けず」が強調されたのである。

軍人として人間としての尊厳を守るための教えでもあったわけです。戦陣訓は、戦場道徳を守りなさいというのが本来の趣旨だったのが、その一部分だけが突っ走ったのが現実である。その一部分だけを捉えて戦陣訓はどうだったとか、軍人勅諭はどうだとかの批判をすべきではないのである。我々が日本の色々な問題を考えるときに、とかく言葉じりだけを捉え批判する傾向があるが、本来何を言いたいのか、本質的なことは何だろうということをしっかりと読みとることが大事だと思う。

(コメント)
なぜ沖縄で集団自決が起きたかといえば、アメリカ軍の残虐さが広く知れ渡っていたからとしか言いようがない。アメリカ兵にいたぶられて殺されるくらいなら、自決を選ぶのが当然であろう。そういった背景の中で、自決用の手榴弾が住民に渡されたとしても、別に不思議ではない。日本軍は沖縄の住民を守るために戦ったのであり、住民に自決を強要することなどありえない。戦後、垂れ流されたアメリカ兵の美談はほとんどがプロパガンダであり、ベトナムやイラクでのアメリカ軍の所業と戦前の人種差別の酷さを考えれば、当時のアメリカ兵がどんなものか、容易に想像が付くはずである。要するに、GHQのお得意だった敵のすり替えが、反日左翼の手で沖縄の集団自決でも行なわれ、残虐非道のアメリカ兵は正義の味方として扱われ、命をかけて沖縄住民を守るために戦った日本軍が、いつの間にか悪者にされてしまったわけである。

中国と朝鮮半島は古くから人肉食の習慣(さすがに戦後は表立ってはないが)があり、日本統治の朝鮮半島では禁止令が出されていたくらいである。シナ兵の民間人や捕虜の殺害方法は惨たらしく、手足を切り取ったり、乳房をえぐったり、赤ん坊を取り出したりするのは、そういう習慣が影響しているのではないだろうか。手に穴を開けて数珠つなぎにして人間を拉致するのは食料として扱っているからである。大陸で日本兵の蛮行として喧伝されているものの大部分は、シナ兵の蛮行を日本兵にスライドしたもので、日本には女性の乳房をえぐったり、腹を裂いて赤ん坊を取り出すような文化はないが、中国ではごく普通のことだったのである。

戦敗国の軍人は冤罪を着せられて死刑にされることはあっても、戦勝国の軍人の戦争犯罪は決して裁かれることはない。それが戦争裁判というものの本質であり、戦勝国が公に歴史の捏造を行なう場所といっても過言ではない。理屈や罪状をいくら並べても、単なる復讐を目的としたリンチ裁判に過ぎないことはもはや明らかだ。こんな恥知らずな茶番にいつまで付き合わなければならないのか、戦後60年以上経っても、自虐史観を執拗に押し付けてくる反日国家と、相変わらず日本を占領し続けるアメリカに対し、誠に憤りを禁じえない次第である。

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