日本とスリランカを結ぶ友好の歴史

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地球史探訪: 日本・スリランカ友好小史
日本とスリランカの間には、互いに助け合った
長い友好の歴史がある。
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■1.「日本は自由であるべきである」■
1951(昭和26)年9月6日午前11時、スリランカ代表のJ
・R・ジャヤワルダナの演説が始まった。舞台は米国サンフラ
ンシスコ講和会議である。[a]
51カ国からの代表が集まって、日本との講和条約を結び、
日本の独立を認めるかどうかを議論する場であった。米国が中
心となって、日本の独立を認める講和条約案がまとめられてい
たが、ソ連は日本の主権を制限する対案を提出し、さらに中国
共産党の出席を求めたりして、審議引き延ばしを図っていた。
ジャヤワルダナ代表は、自らはスリランカ代表ではあるが、
「日本の将来に対するアジアの人々の全般的態度における彼ら
の感情をも述べうる」として、こう語った。
アジアの諸国、セイロン(JOG注:スリランカ)、インド
及びパキスタンの日本に対する態度を活気づけた主要な理
念は日本は自由であるべきであるということであります。
・・・
「自由であるべき」とは、日本の占領を解いて、独立を回復さ
せるべき、という意味である。
■2.「アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊敬のため」■
講和条約への賛成を表明した後、ジャヤワルダナ代表はその
理由を述べた。
アジアの諸国民が日本は自由でなければならないという
ことに関心をもっているのは何故でありましょうか。それ
は日本とわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、
アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり日本を
保護者にして盟友として見上げていた時に、アジア隷従人
民が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。
私は、アジアに対する共栄のスローガンが隷従人民に魅
力のあったこと、そしてビルマ、インド及びインドネシア
の指導者のあるものがかくすることにより彼等の愛する国
々が解放されるかも知れないという希望によって日本人と
同調したという前大戦中に起こった出来事を思い出すこと
ができるのであります。
「共栄のスローガン」とは、日本が大戦中に唱えた「大東亜共
栄圏」のことであり、実際に欧米諸国の植民地支配からの独立
を目指す国々の代表が東京に集まって、「大東亜会議」が開催
されている。[b]
さらにビルマ、インド、インドネシアでは、日本が支援して
設立された独立軍が、これらの国々の独立戦争に大きな役割を
果たした。
ジャヤワルダナ代表は、日本に対する賠償請求権を放棄する、
と続け、その理由として、仏陀の「憎悪は憎悪によって消え去
るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」を
引いた。
ジャヤワルダナの演説が終わると、賞賛の声の嵐で会場の窓
のガラスが割れるほどであったと『サンフランシスコ・ニュー
ス』は報じている。また『サンフランシスコ・エグザミナー』
紙は「褐色のハンサムな外交官が、セイロン島よりやって来て、
世に忘れ去られようとしていた国家間の礼節と寛容を声高く説
き、鋭い理論でソ連の策略を打ち破った」と評した。
この後、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く49カ
国が講和条約に署名し、翌年4月28日、日本はついに独立を
回復したのだった。
■3.西洋の植民地支配400年■
おそらく当時の日本国民は、遠く離れたスリランカの一外交
官がなぜにこれほどまで日本を擁護してくれるのか、いぶかし
く思ったろう。しかし、スリランカの歴史を辿ってみれば、そ
の理由も見えてくる。
スリランカとは「光り輝く島」という意味で、その美しい豊
かな自然から「インド洋の真珠」とも呼ばれてきた。北海道の
8割ほどの国土に、現在では2千万人の人々が住んでいる。
紀元前5世紀に北インドから移住したシンハラ人が王国を作
り、紀元前3世紀に仏教が伝わると、それ以降、現在まで仏教
国として信仰を守ってきた。
しかし、スリランカはインド洋交易の重要拠点であり、その
ため、早くから西洋諸国の侵略にさらされた。1505年にポルト
ガル人がやってきて、約150年間、沿岸部を支配した。1658
年からは今度はオランダが替わって約140年間、植民地支配
を続けた。さらに1796年にはイギリスが支配者となり、全島を
支配下においた。
イギリスは、スリランカ全島を紅茶の生産基地とし、米まで
輸入しなければならない状態にしてしまった。独立を求めて大
規模な反乱が三度起きたが、いずれも武力鎮圧された。
イギリスは南インドから移住してきた少数派のタミル人を優
遇し、彼等を教育して役人とし、多数派のシンハラ人を治めさ
せた。この巧妙な分割統治が、現在も続く民族闘争の原因となっ
た。
同時にキリスト教徒を優遇し、仏教を抑圧した。シンハラ人
のほとんどは仏教徒で、教育を受けることも難しかった。
■4.「アジアを救うことこそ日本の役割」■
イギリスの植民地支配のもとで衰退した仏教を再興しようと
19世紀末に立ち上がったのが、スリランカ建国の父と呼ばれ
るアナガーリカ・ダルマパーラであった。
敬虔な仏教徒の家に生まれたが、当時のキリスト教の強い影
響で、聖書にちなんだダビッドという名をつけられていた。し
かし仏教再興運動を進める中で、自ら「アナガーリカ(出家者)
・ダルマパーラ(法の保護者)」と名乗ったのだった。
ダルマパーラは仏教の縁で、明治22(1889)年2月に初めて
日本を訪れた。おりしも大日本帝国憲法発布式が行われており、
ダルマパーラは近代日本の胎動を目の当たりにした。
ダルマパーラは明治25(1892)年に2回目、明治35(1902)
年に3回目の来日を果たした。3度目の来日の2か月前、日英
同盟が結ばれており、ダルマパーラは「欧米人のアジア人に対
する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるア
ジアを救うことこそ日本の役割なのだ」と語っている。
その2年後、日本は大国ロシアに対して戦いを挑み、これを
打ち破った。日本の勝利にスリランカの人々は熱狂した。ダル
マパーラも「こんな素晴らしいことはない。皆さんは気づいて
いないかも知れないが、皆さん日本人によってアジアはまさに
死の淵から生還したのだ」と語っている。
■5.「次に生まれるときには日本に生まれたい」■
3度の来日で、日本の驚異的な発展を目の当たりにしたダル
マパーラは、シンハラ人の自立のためには技術教育が欠かせな
いと考え、日本に留学生を派遣する財団を設立した。
大正3(1913)年、ダルマパーラは最後の訪日を行い、帰路、
満洲と朝鮮も訪れた。日本はこれらの地に惜しみない資本投下
を行って、急速に近代化を進めていた。ダルマパーラは「日本
が2、3年の内にこの地で完成させたことを、イギリスがイン
ドで行ったならば優に50年を要していただろう」と、植民地
を搾取の対象としかみないイギリスとの違いを指摘した。
ダルマパーラの活動によって、仏教に根ざしたシンハラ人の
民族主義運動が高まっていった。イギリスの植民地当局はこれ
を警戒し、おりから発生した暴動の首謀者としてインドで5年
間もダルマパーラを拘束した。弟も捕らえられ、半年後に獄死
した。それでもダルマパーラは運動をやめず、昭和8(1933)年、
69歳でスリランカ独立の日を見ることなく、生涯を終えた。
「次に生まれるときには日本に生まれたい」とよく話していた
という。
■6.皇太子のお召し艦を一目見ようと胸を弾ませて港に赴いた少年■
1921(大正10)年3月、日本の巡洋艦『香取』がスリランカ
を訪れた。当時、皇太子であった昭和天皇をお乗せして、ヨー
ロッパに向かう途上であった。
皇太子のお召し艦を一目見ようと港に集まった人々の中に、
一人の少年がいた。15歳のジャヤワルダナであった。
ジャヤワルダナは、昭和54(1979)年、国賓として来日した
際に、宮中の歓迎晩餐会にて次のように語っている。[1,p82]
外国の統治の下では、人々の信仰や言葉、慣習などはほ
とんど消え去りそうになっていました。
このことから、私達だけではなく、西欧の帝国主義の下
で同じような運命によって苦しんでいる全てのアジアの国
民達は日本を称賛し、尊敬していたのです。先の80年の
間、日本はアジアにおいて独立国として立ち上がっていた
のです。
西欧の列強が、その軍事力と貿易力によって世界を支配
していた時に、あなた達は彼等と競い、匹敵し、時には打
ち負かしていました。
陛下が1920年代に皇太子としてスリランカを訪れた
際には、私は気持ちを高ぶらせて陛下が乗船されている艦
を一目見ようと港に行ったものでした。
当時の日本は、日英同盟のもと、第一次大戦をイギリスと共
に戦って勝利し、世界の強国として頭角を現しつつあった。自
分たちと同じアジア民族で、かつ共に仏教を信奉する日本の皇
太子が、自国の巡洋艦で対等の同盟国であるイギリスに赴くと
いう出来事は、「自分たちもいつかは独立を」という希望をス
リランカの人々に抱かせたに違いない。
■7.「インドとスリランカにいる兄弟・姉妹に呼びかけます」■
1932(昭和7)年にコロンボに生まれ、スリランカ独立後に海
軍兵学校部隊長となったソマシリ・デヴェンドラ氏は、次のよ
うに語っている。
1941年に日本が真珠湾を攻撃し、第2次大戦に参戦した
時には、スリランカ人は日本に対してある種の同情を寄せ
ていました。・・・
1942年の初め、強力な日本海軍はインド洋上の敵艦をど
んどんと破壊していき、スリランカ島に向かっていきまし
た。しかし、その時にスリランカに停泊していたイギリス
軍艦の多くは第一次世界大戦当時に造られた古いものばか
りでした。
4月、日本海軍の航空隊はスリランカの都市を空襲し、
それらの軍艦に攻撃をしかけてきました。この航空隊は真
珠湾攻撃に参加した後にやって来た隊でした。日本軍の爆
撃の命中率は世界で最も正確だったと言われています。
この空襲の際に、3人が乗った日本軍の攻撃機1機が墜落し
た。コロンボのカテッナ市営墓地には、墜落死した日本兵の墓
が造られている。
日本軍はシンガポールを占領した後、投降したインド兵を集
めて、インドの独立を目指すインド国民軍を組織させた。その
中にはスリランカ人の部隊もあった。
インド国民軍はシンガポールからインドやスリランカに向かっ
て「ラジオ昭南(シンガポール)と呼ばれるラジオ放送を行っ
た。
当時12歳だったデヴェンドラ氏は、このラジオ放送をよく
聞いていた。「こちらはラジオ昭南、インドとスリランカにい
る兄弟・姉妹に呼びかけます」という言葉で始まり、「ワン
・デイ・マータラ」という、今でもインドでよく知られている
インド国民軍の歌を流した。
アメリカの情報機関は、このようなインド向けの放送が、イ
ンド人の心理に与えた影響は非常に大きかったとしている。
■8.「私達は日本に、このことを感謝しなければなりません」■
日本が敗戦した日は「Victory over Japan Day(対日勝利の
日)」と呼ばれ、大きな都市では記念式典が開かれた。デヴェ
ンドラ氏が住んでいたラトゥナプラでも式典が開かれ、イギリ
ス側代表の後で、氏の父親がスリランカ側を代表して演説を行っ
た。
この日は、私達が日本に対する勝利を祝うものです。し
かし、私達は日本によって得られたものがあります。それ
は愛国心という心でした。それは、日本によって全てのア
ジアの国々にもたらされたのでした。
戦争によってアジアの国々、インドネシアやインド、ス
リランカ、ビルマなどは自らに対する自信と民族主義の意
識を得たのです。私達は日本に、このことを感謝しなけれ
ばなりません。
「対日勝利の日」に、英国側の前で、日本に感謝する演説を行
うとは、まことに大胆な言動である。それだけ強い気持ちが籠
もっていたのだろう。
1948年2月4日、スリランカは独立を果たした。日本が設立
を支援したインド国民軍の指導者たちをイギリスが「反逆者」
として軍事裁判にかけようとした事に対して、インド全土に暴
動、ストライキが広まり、それがきっかけとなってインドは独
立を勝ち得た。それとともに、イギリスはスリランカからも撤
退したのである。
昭和天皇のお召し艦を一目見ようと港に駆けつけた少年ジャ
ヤワルダナが、独立政府の要職についていた。そしてサンフラ
ンシスコ講和会議で日本を擁護する演説をすることになる。
日本は明治以降、スリランカの人々の独立への希望に灯を点
してきたのだが、今度はそのスリランカが日本の独立を助けて
くれたのである。
(文責:伊勢雅臣)
(コメント)
以前、NHKの番組『その時、歴史が動いた』で、サンフランシスコ講和条約の際の、東南アジア諸国の日本擁護の演説が、見事に日本批判の演説として解説されていたことがある。戦後、日本人はマスコミを始めとする反日勢力に、いいように嘘の歴史を刷り込まれてきたが、大東亜戦争が無ければ、未だに大部分の有色人種が奴隷同然の身分だったことは間違いなく、我々の祖先は有色人種の白人支配からの解放という、有史以来の大革命を成し遂げた、人類史に残る英雄といってもあながち間違いではないと考えている。
日本が大東亜戦争に突入したのは、アメリカを始めとする白人列強国家の罠に嵌ったのが直接の原因だったが、戦略的に勝ち目のなかった日本は、律儀にアジア解放の理想を掲げ、戦いには負けはしたものの、奮戦の末、その理想は見事に実現させたわけである。もし世界に日本が無かったならば、と考えてみれば、そこには白人が有色人種を支配し、家畜のように詐取する地獄のような世界しか想像出来ないだろう。
過去400~500年の世界史を検証すれば、大東亜戦争での日本の正しさは揺らぐことがないのだが、連合国は極東軍事裁判を利用して、自分達が今まで被っていた悪の仮面を日本に被せ、日本が被っていた善の仮面を自分達で被ってしまった。日本人は自分達が正しいのにも関わらず悪だと思い込み、連合国の人間は自分達が悪なのに正義だと信じ込んでいるのである。善の仮面を外せば醜い本性が現れてしまうので、連合国は武力や策略を使ってでも日本を黙らせておきたいのだろう。
日本が黙っている間に、大量移民などで合法的に日本を滅ぼしてしまえば尚良いと考えているのではないだろうか。大量移民が無理でも、マスコミや教育を利用して社会や国を弱体化させ、日本人を愚民化して牙を抜いてしまえば、軍事的に制圧することは容易くなる。米軍の庇護下で太った豚が、ある日突然、野山に放たれ、中国という虎に献上された時、豚にはもはや虎の餌以外の選択肢がないのが現実である。せめて今のちに豚から猪くらいにはしておかないと、本当にチベットの二の舞になりかねないだろう。
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