大東亜戦争とマレー人
クンユアム旧日本軍博物館(タイ)のホームページより引用
http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/index.html

イスマイル・ビン・ラザク氏 1927年マレーシア ペナン生まれ 78歳
荷役会社を元経営 現在もペナン在中 一女の父
日本語タイ語を理解する イスラム教徒マレー人である。
写真:H17.11.17 於タイ パヤオ
― 1941年12月8日に大東亜戦争が開始され、パールハーバー攻撃とともに英領マラヤのコタバルに日本軍が上陸しましたが、その当時、マレーの人はどのような気持ちを持っていましたか。
イスマイル
― 当時はマレーシアという国ではなく、イギリスの植民地でマラヤと言っていました。マレー人とイギリス人はうまくいっていませんでした。イギリス人はマレー人を押さえつけて、国の仕事にはもちろんマレー人は就けない、マレー人が働いても僅かなお金しか貰えなかった。教育も受けられない。マレー人に力はなかったのです。一人の人間として認められることはなかった。人間らしい生活はなかったのです。いつの日にか自分たちの国にしようという思いはマレー人にありました。
― 日本軍がコタバルに上陸したときどのように思いましたか。
イスマイル ― 当時は今と違ってすぐに情報は伝わりません。ラジオもない、イギリスの新聞はあったがよくわからない。状況は人から人と口伝えで伝わってきたのです。イギリス軍を撃破して進む日本軍に私たちは歓喜しました。日本人が我々マレー人をたすけに来た。ほんとうに嬉しかった。マレー人は日本軍を歓呼して迎え入れて協力したのです。
― それはイスマイルさんの気持ちですか。
イスマイル
― 私だけでなく、当時のマレー人の気持ちです。
― 日本軍は誰と戦い、誰が死にましたか。
イスマイル
― マラヤにはあと中国人がいました。これは町で商売などやっていましたが、日本軍が来るとジャングルに逃げて日本軍と戦いました。ですから中国人は死んだでしょう。しかしマレー人は死んでいません。
― 「プリンスオブウエールズ」 「レパルス」の撃沈を知っていますか。
イスマイル
― 人伝えで知って、その後新聞に出ました。みんな喜びましたよ。
― ペナンに日本軍が来た時の状況を教えてください。
イスマイル ― 当時私は15歳でした。ペナンにはイギリス軍がいましたがある日、日本軍の飛行機が偵察に来て、その後20機が爆弾を落としていった。これはイギリス軍の基地だけ攻撃した。その様子を目の前にして、見て私たちマレー人は感動しました。私たちはイギリス人に蔑まれ虐められていたのですから。お前らはバカだ、人間じゃあないと。ほんとうに日本軍に感謝しました。
― その後ペナンに日本軍が進駐しましたが、マレー人を差別したり虐めたりしたことはありましたか。
イスマイル
― まったくありません。日本軍は私たちに学校教育をうけさせてくれた。日本軍の先生がマレー語で教えてくれました。仕事もできるようになり、給料もちゃんと払ってくれた。イギリスがいたときとは全然違います。イギリスは私たちに教育や仕事をやらせなかった。日本人はマレーをマレー人に任せるようにしたのです。その時のマレーと日本の約束は「お互いに協力していこう」ということでした。マレーは良くなったのです。中国人はジャングルに逃げたままでした。
― その後イスマイルさんはどうされましたか。
イスマイル
― 17歳で日本海軍に入りました。募集していてテストを受けたのです。人気がありました。競争率も高かったはずです。そしてSYOUNANTOU(シンガポール)に行きましたが、このペナンでは25人の青年が行きました。マレー全体13の州から何人でしょう、人数は正確ではありませんが300人くらいはいたでしょうか。SYOUNANTOUにはマレーの青年のほかに、インドネシアの16歳、17歳の優秀な青年もたくさんきていました。
― 日本海軍ではどんな職種でしたか。
イスマイル ― 英語の無線を傍受して日本語にする仕事です。潜水艦にも乗りましたし軍艦にも乗りました。インドネシアの方までいきましたよ。給料は一月300円でしたが、日本軍人と比べても十分なお金でした。食べ物も十分ありました。マレー人と日本人との間に問題はありませんでした。偉い人の名前はニシハラさんです。
― 1945年8月15日にDAITOUASENSOUが日本が負けて終わりますが、ペナンではどんな状況でしたか。
イスマイル
― ちゃんと発表しました。給料はもう払えません。ここにあるものは皆さんで使ってくださいと。その後、中国人とイギリス人が戻ってきた。再び来たイギリス人は以前のような横柄な態度ではなかった。マレー人は日本人から多くのことを学んだのです。マレー人も以前のマレー人ではありませんでした。
― マラヤでの大東亜戦争を、いまイスマイルさんはどう思われていますか。
イスマイル ― DAITOUASENSOUは感謝しています。DAINIPPONが来なければ今のマレーシアはなかったでしょう。最大の感謝の気持ちは変わりません。
取材:平成17年11月17日
タイ・パヤオにて
文責:武田浩一
特定アジア(中国、韓国、北朝鮮)の歴史捏造は論外だが、上記のような大東亜戦争の真実が、日本の公式の場でなかなか語られることがないのは、極論を言えば、現在、世界を支配しているのが大東亜戦争の戦勝国だからである。特定アジアの三馬鹿や反日勢力はその使い走りとして活動しており、日本の教育は捻じ曲げられ、マスコミは日本人を巧妙に騙すプロパガンダ機関となっている。政治家も本当のことを発言すると様々な手段で潰されてしまうので、村山談話や河野談話を引き継がざるを得ない。キチガイの集まりで有名な社民党などが、新しい首相が就任するたびに売国談話を継承するか否かを質問するのは、一種の踏み絵を行っているからである。
日本が大東亜戦争を戦うまで、唯一、白人に対抗する力のあった日本人を除けば、東洋人は人間扱いされておらず、華僑は白人の有能な使用人として、積極的に白人支配者の手先になっていた。恐らく、日本が戦わなければ、白人による歪な有色人種支配体制は世界規模で完成していたに違いない。しかし、日本が多大な犠牲を払ってそれを阻止し、有色人種解放の機会を与えたのは歴史の示すとおりである。
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イスマイル・ビン・ラザク氏 1927年マレーシア ペナン生まれ 78歳
荷役会社を元経営 現在もペナン在中 一女の父
日本語タイ語を理解する イスラム教徒マレー人である。
写真:H17.11.17 於タイ パヤオ
― 1941年12月8日に大東亜戦争が開始され、パールハーバー攻撃とともに英領マラヤのコタバルに日本軍が上陸しましたが、その当時、マレーの人はどのような気持ちを持っていましたか。
イスマイル
― 当時はマレーシアという国ではなく、イギリスの植民地でマラヤと言っていました。マレー人とイギリス人はうまくいっていませんでした。イギリス人はマレー人を押さえつけて、国の仕事にはもちろんマレー人は就けない、マレー人が働いても僅かなお金しか貰えなかった。教育も受けられない。マレー人に力はなかったのです。一人の人間として認められることはなかった。人間らしい生活はなかったのです。いつの日にか自分たちの国にしようという思いはマレー人にありました。
― 日本軍がコタバルに上陸したときどのように思いましたか。
イスマイル ― 当時は今と違ってすぐに情報は伝わりません。ラジオもない、イギリスの新聞はあったがよくわからない。状況は人から人と口伝えで伝わってきたのです。イギリス軍を撃破して進む日本軍に私たちは歓喜しました。日本人が我々マレー人をたすけに来た。ほんとうに嬉しかった。マレー人は日本軍を歓呼して迎え入れて協力したのです。
― それはイスマイルさんの気持ちですか。
イスマイル
― 私だけでなく、当時のマレー人の気持ちです。
― 日本軍は誰と戦い、誰が死にましたか。
イスマイル
― マラヤにはあと中国人がいました。これは町で商売などやっていましたが、日本軍が来るとジャングルに逃げて日本軍と戦いました。ですから中国人は死んだでしょう。しかしマレー人は死んでいません。
― 「プリンスオブウエールズ」 「レパルス」の撃沈を知っていますか。
イスマイル
― 人伝えで知って、その後新聞に出ました。みんな喜びましたよ。
― ペナンに日本軍が来た時の状況を教えてください。
イスマイル ― 当時私は15歳でした。ペナンにはイギリス軍がいましたがある日、日本軍の飛行機が偵察に来て、その後20機が爆弾を落としていった。これはイギリス軍の基地だけ攻撃した。その様子を目の前にして、見て私たちマレー人は感動しました。私たちはイギリス人に蔑まれ虐められていたのですから。お前らはバカだ、人間じゃあないと。ほんとうに日本軍に感謝しました。
― その後ペナンに日本軍が進駐しましたが、マレー人を差別したり虐めたりしたことはありましたか。
イスマイル
― まったくありません。日本軍は私たちに学校教育をうけさせてくれた。日本軍の先生がマレー語で教えてくれました。仕事もできるようになり、給料もちゃんと払ってくれた。イギリスがいたときとは全然違います。イギリスは私たちに教育や仕事をやらせなかった。日本人はマレーをマレー人に任せるようにしたのです。その時のマレーと日本の約束は「お互いに協力していこう」ということでした。マレーは良くなったのです。中国人はジャングルに逃げたままでした。
― その後イスマイルさんはどうされましたか。
イスマイル
― 17歳で日本海軍に入りました。募集していてテストを受けたのです。人気がありました。競争率も高かったはずです。そしてSYOUNANTOU(シンガポール)に行きましたが、このペナンでは25人の青年が行きました。マレー全体13の州から何人でしょう、人数は正確ではありませんが300人くらいはいたでしょうか。SYOUNANTOUにはマレーの青年のほかに、インドネシアの16歳、17歳の優秀な青年もたくさんきていました。
― 日本海軍ではどんな職種でしたか。
イスマイル ― 英語の無線を傍受して日本語にする仕事です。潜水艦にも乗りましたし軍艦にも乗りました。インドネシアの方までいきましたよ。給料は一月300円でしたが、日本軍人と比べても十分なお金でした。食べ物も十分ありました。マレー人と日本人との間に問題はありませんでした。偉い人の名前はニシハラさんです。
― 1945年8月15日にDAITOUASENSOUが日本が負けて終わりますが、ペナンではどんな状況でしたか。
イスマイル
― ちゃんと発表しました。給料はもう払えません。ここにあるものは皆さんで使ってくださいと。その後、中国人とイギリス人が戻ってきた。再び来たイギリス人は以前のような横柄な態度ではなかった。マレー人は日本人から多くのことを学んだのです。マレー人も以前のマレー人ではありませんでした。
― マラヤでの大東亜戦争を、いまイスマイルさんはどう思われていますか。
イスマイル ― DAITOUASENSOUは感謝しています。DAINIPPONが来なければ今のマレーシアはなかったでしょう。最大の感謝の気持ちは変わりません。
取材:平成17年11月17日
タイ・パヤオにて
文責:武田浩一
特定アジア(中国、韓国、北朝鮮)の歴史捏造は論外だが、上記のような大東亜戦争の真実が、日本の公式の場でなかなか語られることがないのは、極論を言えば、現在、世界を支配しているのが大東亜戦争の戦勝国だからである。特定アジアの三馬鹿や反日勢力はその使い走りとして活動しており、日本の教育は捻じ曲げられ、マスコミは日本人を巧妙に騙すプロパガンダ機関となっている。政治家も本当のことを発言すると様々な手段で潰されてしまうので、村山談話や河野談話を引き継がざるを得ない。キチガイの集まりで有名な社民党などが、新しい首相が就任するたびに売国談話を継承するか否かを質問するのは、一種の踏み絵を行っているからである。
日本が大東亜戦争を戦うまで、唯一、白人に対抗する力のあった日本人を除けば、東洋人は人間扱いされておらず、華僑は白人の有能な使用人として、積極的に白人支配者の手先になっていた。恐らく、日本が戦わなければ、白人による歪な有色人種支配体制は世界規模で完成していたに違いない。しかし、日本が多大な犠牲を払ってそれを阻止し、有色人種解放の機会を与えたのは歴史の示すとおりである。
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