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Category : 日本の偉人に学ぶ

夏目漱石「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、善かつたと思つた」

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夏目漱石「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、善かつたと思つた」

漱石の全集未収録随筆を発掘 作家の黒川創さんが小説に 2013年1月7日 産経ニュース

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漱石の随筆が掲載されていた満州日々新聞

文豪、夏目漱石(1867~1916年)が新聞に寄稿した全集未収録の随筆が見つかったことが6日、分かった。初代韓国統監を務めた伊藤博文の暗殺などに触れた内容で、研究者は「初めて見る貴重な資料だ」と評価している。作家の黒川創(そう)さん(51)が国立国会図書館などから発掘した。7日発売の文芸誌「新潮」2月号
に、随筆の執筆背景などを盛り込んだ黒川さんの小説「暗殺者たち」の一部として全文掲載される。

随筆は「韓満所感」と題し、明治42(1909)年11月5、6日付「満洲日日新聞」に2回掲載された。1面トップの扱いで、計約2800字の分量がある。同紙は、日露戦争後に日本の租借地となった満州(現在の中国東北部)の大連で発行されていた邦字新聞。新潮社によると、随筆は全集や単行本には収録されておらず、約100
年間忘れられた作品になっていた。

伊藤博文暗殺の報に接した驚きに始まり、満州や朝鮮で活躍する日本人に頼もしい印象を受けたことが記されている。漱石は同年9~10月、親友の満鉄総裁、中村是公の招きで満州・朝鮮各地を旅行していた。

黒川さんは平成22年、韓国開催のシンポジウムに参加した際、伊藤を暗殺した安重根に関する現地の資料集に随筆の一部が収録されているのを発見。国会図書館所蔵の満洲日日新聞のマイクロフィルムで全体を確認した。黒川さんは「政治など天下国家の問題を正面から論じることを避ける態度が明らかで、漱石の低(てい)徊(かい)趣味(俗事を避け、余裕を持って人生を眺める態度)がよく出ている」と話す。

東北大付属図書館の「漱石文庫」の研究に関わってきた仁平道明・和洋女子大教授(国文学)は「漱石のアジア観を考える時に重要な意味を持つ部分もあり、貴重な資料だ」と今回の発見に注目しており、「漱石全集」を刊行する岩波書店も「全集改訂時にぜひ収録したい」と話している。

■夏目漱石「韓満所感」(抜粋)

「昨夜久し振りに寸(すん)閑(かん)を偸(ぬす)んで満洲日日へ何か消息を書かうと思ひ立つて、筆を執りながら二三行認(したた)め出すと、伊藤公が哈(は)爾(る)浜(ぴん)で狙撃されたと云ふ号外が来た。哈爾浜は余がつい先達て見物(けぶ)に行つた所で、公の狙撃されたと云ふプラツトフオームは、現に一ケ月前(ぜん)に余の靴の裏を押し付けた所だから、希有(けう)の兇(きょう)変(へん)と云ふ事実以外に、場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた」

「満韓を経過して第一に得た楽天観は在外の日本人がみな元気よく働いてゐると云ふ事であつた」

「歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た事である。内地に跼(きょく)蹐(せき)してゐる間は、日本人程(ほど)憐(あわ)れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼(たの)母(も)しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた 同時に、余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵(ちょう)児(じ)と云はねばならぬ」
(※原文の旧字体は新字体に変更し、ふりがなは一部にとどめた)

(以上)


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福沢諭吉の脱亜論(現代語訳)

福沢諭吉「脱亜論」 1885年3月16日 時事新報

日本の不幸は中国と朝鮮だ。この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているが、もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、 日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。

地球規模で情報が行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。

国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。

「東アジア共同体」の一員として その繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。日本は、大陸や半島との関係を絶ち、 欧米と共に進まなければならない。ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。

この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである


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ネットの声(2chより)

6 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:00:47.25 ID:J4TzNfNkP
吾輩は朝鮮人である。通名はまだない。

10 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:01:35.65 ID:2CbPiVKd0
テレビじゃ絶対報道しないなw

14 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:03:20.48 ID:k8OrG+cN0
夏目漱石はネトウヨ

35 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:12:11.69 ID:vmXI7NqjO
さすが夏目漱石はいいこと言うなあ

38 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:12:53.39 ID:e9u669qH0
札になった人は、さすがにすげーわなw
福澤も夏目も、ガッツリ核心ついとるわ

92 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:32:55.43 ID:C6n1n75F0
知れば知るほどヤヴァイもんな。

103 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:37:05.18 ID:xQc3QXwp0
聖徳太子と伊藤博文がお札から外されたときは
中韓に配慮して負けたのか?と思ったのに
福沢諭吉と夏目漱石を送り込んでたデザイン担当の人スゴイ
無難な人選んだと思ってたら、とんだ刺客

106 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:37:49.61 ID:2CbPiVKd0
まともな日本人なら皆が抱く感想だわな

111 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:39:43.91 ID:ZPAHPK170
漱石先生、私もそのように思います。

115 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:42:22.88 ID:YPZzWEkp0
日本人ならだいたい同じように思っております。
ですが、最近は正直にものが言えなくなりました。辛いものですね。

130 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:49:56.41 ID:LRHZA52n0
俺も将来お札の顔になることを目標に、今日からネトウヨになるわ

134 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:50:53.02 ID:fPVigGuz0
いや、本当にそう思うよw
中国人や朝鮮人には生まれたくないw

148 :名無しさん@13周年:2013/01/08(火) 23:56:04.39 ID:Vi/Y0BwR0
あぁ朝鮮人に生まれなくてよかった

172 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 00:02:05.54 ID:aFBN6bKF0
諭吉と漱石といいスゲーな、見通す力がw

188 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 00:08:09.41 ID:xFZYvgqu0
どんなに時代が変わっても
民族の本質は変わるものではにゃいと
マキャベリ先生も言ってた

189 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 00:08:13.29 ID:BM+83QA60
無知な人たちに教えておくが、新渡戸稲造も「朝鮮亡国論」を書いている。当時世界を見聞きし、翻って朝鮮と中国を見た日本人たちはみんな同じ事考えたんだぞ「この火薬庫をなんとかしないと日本も危ない」ってな。

199 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 00:10:58.41 ID:2MpdeRT40
新渡戸さんも夏目さんもお札でなくなっちゃったね
なんかの圧力?

203 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 00:11:42.02 ID:BM+83QA60
日本のお札になった人たちはみんな朝鮮をどうしようもない劣等国と考えた。不思議でもなんでもないが南朝鮮からしたら不愉快極まりないだろうなw

217 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 00:15:00.53 ID:0hfpzaEWP
土人を目の前にして「文明人でよかった」って
まぁ、普通の感想だわな

248 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 00:26:00.26 ID:LjfVtMI6O
朝鮮人に生まれたら3秒で自殺してるわ

275 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 00:36:30.53 ID:4jkg99cg0
>余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、善かつたと思つた

何と言う名言

281 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 00:37:52.15 ID:hEfV0fs20
中国韓国といかに接点をなくしていけるかが、日本の平和と繁栄に影響するよね
東南アジアとは仲良くしたいな

287 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 00:39:50.21 ID:UVKO9Eh20
素晴らしいね
福沢諭吉といいお札になる人はさすが違うわ
100年前にチョンの本質を見抜いてる

317 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 00:50:52.59 ID:WK/Aq/xs0
100年以上経っても同じ感想抱かせる民族って・・・

327 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 00:53:49.14 ID:PoN6cQg40
余も日本人に生まれて良かった

376 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 01:07:56.64 ID:4Tx9mhC/0
漱石は真日本人

503 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 02:06:56.84 ID:KqNVDs3yO
朝日もトップで載せてたけど中韓についてはスルーしてたなw
やっぱ都合が悪いんだろうなw

572 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 03:24:22.23 ID:9ZlDvmjA0
自分の国に誇りを持てるって幸せだな

635 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 04:18:31.46 ID:C62VlxbW0
善かつたと思つた。wwww
今年の流行語大賞決定だなwwwww

723 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 05:16:10.57 ID:uDoLRFV90
お札から夏目漱石と新渡戸稲造が消えた理由
            ↓

在日本大韓民国民団三重県地方本部事務局長の韓久氏が講演をした。(中略)
吉田松陰や福沢諭吉、夏目漱石、新渡戸稲造らが朝鮮蔑視をしたこと。
韓国人は日本の紙幣をみたくないこと。
日本の紙幣から彼らを排除してほしいことなどを訴えた。
http://www.tamanegiya.com/nonbee.16.8.html

819 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 07:07:18.55 ID:GY+uXQhZP
夏目漱石が生んだ造語
「新陳代謝」、「反射」、「無意識」、「価値」、「電力」、「肩がこる」、「電光石火」
「ひどい」、「浪漫(ロマン)」、「沢山」、「兎に角(とにかく)」

831 :名無しさん@13周年:2013/01/09(水) 07:28:32.89 ID:FXLUwoZrP
現代人もそう思うよな

関連記事
李氏朝鮮の文明水準
This is 韓国人
亡命者が明かした文化大革命の実相

(コメント)
個人的な意見として、現代の日本人より戦前の日本人の方が知性や徳性の面で優れていたと考えているが、反日ユダヤ朝鮮勢力の手先として活躍している、現在の日本の自称・知識人達と明治の本物の知識人達の質の差を考えると、あまりの格差に腹を抱えて笑いたくなる時がある。

鳥越某、森永某、その他有象無象の現代のテレビ子飼いの知識人とやらを見ていると、知識人という人種は既に絶滅したのではないかという感想を持たざるを得ない。まあ、まともな情報とまともな人間性があれば、朝鮮半島や中国と仲良くしようなどとは思わないわけだが、現在の日本はメディアがまともじゃないので、親韓親中の洗脳報道のオンパレードが続いている。

国内の朝鮮人利権とつながりのある芸能人などは、今後の芸能活動を考慮して「韓国人に生まれたい」などと言ってしまったりするようだが、ネットで正しい情報を得ている一般の保守層にしてみれば、漱石同様「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、善かつたと思つた」というのが本音ではないだろうか。

韓流アイドルだかのコンサートに出掛ける人間もたいがいだが、いい年をしたおっさんまで熱を上げている醜態は見るに耐えないものだ。冷静な第三者としては、死ぬまで一緒にケツでも振ってろと思うしかないが、彼らの姿を見たとしたら、夏目漱石や福沢諭吉はどのような感想を持つだろうか。

中国も実際に様々なことを学ぶに値する国であったのは、唐の時代までで、もう千年以上も前のことである。あとはモンゴル族や満州族などが入り乱れて建国し、最後は毛沢東という田舎者が共産主義を奉じて、文化大革命という蛮行を起こして全てを無茶苦茶にしてしまった。今の中国は文化的、文明的には空っぽの国であり、単なる周辺諸国の領土を狙う獣の国でしかない。そんな国に対して、一系の天子を奉じ、世界最古の歴史を持つ日本が学ぶことは、基本的に何もないのである。

日本に関わりがなけば、韓国や中国の存在を認めてやっても良いが、反日の在日や帰化人が日本のマスコミや役所に入り込み、様々な悪さをしている状況ではそれも難しい。日本各地で神社の神木が意図的に枯らされる、反日勢力の仕業と思われる事件が多発しているが、日本という国まで枯らされるわけにはいかない。民主党という朝鮮政党は倒れたが、まだまだ売国マスコミは健在である。こいつらを成敗しない限り、まだまだ日本の夜明けは遠いと言わざるを得ないだろう。

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ブータン農業の父 西岡京治

                                   
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ブータンで最も尊敬された日本人 西岡京治 

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今もブータン農業の父と讃えられる故・西岡京治氏

引用元
http://www.ifsa.jp/index.php?kiji-sekai-nishioka.htm

国際協力事業のモデルとなる身の丈にあった開発を

神秘の国ブータンで、一人の日本人が28年間、農業技術指導を行った。農作物の生産力を飛躍的に増大させ、若いリーダーの育成に成功した。一人の日本人の「無私の貢献」がブータンの未来を拓いた。ブータンを愛し、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ西岡京治は、日本人の誇りである。

神秘の国ブータンで農業指導

西岡京治は隠れた偉人である。日本人で彼を知っている者は、ほとんどいない。しかし、ヒマラヤの小国ブータンでは、最も有名な日本人である。彼はこのブータンに渡り、28年間という長期間、この国で農業指導に携わってきた。日本の国際協力事業の最も成功した例として西岡京治は記憶されている

そもそも、日本人はブータンという国そのものをほとんど知らない。神秘の国なのである。人口は100万人程度で、国民の大半は農業で生計を立てている。しかし、国土の大半は山と谷であるため、田畑に使える土地は1割程度。農業自給率が極めて低く、60パーセント程であった。西岡はこうしたブータンの問題に真っ正面から取り組んで、28年間ブータンの農業指導に自分の人生を捧げたのである。

恩師中尾佐助の推薦

西岡京治がブータンと関わりを持ち始めるきっかけは、恩師中尾佐助助教授との出会いからはじまる。西岡は大阪府立大学農学部の学生で、中尾はその助教授であった。彼はかねてから、ヒマラヤ地方の植物の生態に関心を持っており、1958年、日本人としてはじめて、ブータン政府の正式な招きを受けて入国した。

この時、中尾はブータンのドルジ首相から、農業専門家を派遣してほしいとの依頼を受けた。ブータンの農業指導にあたるには、ブータンの人々の生活に溶け込んで、「あの人の言うことなら間違いない」という信頼を受けなければならない。中尾は西岡を推薦することにした。穏やかで謙譲、友誼に厚く、誠実で努力家である西岡は、根気と忍耐が予想されるブータンでの生活に最適な人材と中尾は考えたのである。

ブータン到着

1964年4月23日、西岡は新妻里子を伴いブータンに向かって飛び立った。目的地はブータンのパロである。パロはパロ県の中心の町で、西岡が20数年間住み着いて農業指導した町である。西岡は、さっそく開発庁農業局の事務所に出向いた。そこで最初の壁に直面することになる。この事務所の局長も職員もインド政府から派遣されたインド人で、全て彼らが取り仕切っていた。西岡は歓迎されていなかった。局長は、ブータンの農業事情を一番よく知っているのは、自分たちインド人で、海の向こうの日本人に何がわかるかと言わんばかりの態度であった。

こうした冷たい歓迎を受けながらも、到着早々、それにめげるわけにはいかない。彼らを納得させるには、実際に試験栽培で見せるしかない。ところが、ブータンにはまともな試験農場が一つもないのである。彼の最初の仕事は、政府に働きかけて試験農場の土地を提供してもらうことであった。

試験農場での野菜栽培

政府が提供した最初の試験農場は、2百平方メートル程の小さなものであったが、とにかくここから始めるしかない。政府はまた3人の少年を実習生として付けてくれた。まだ12、3歳の少年たちである。彼らが、後にブータン農業を担う人材に成長する。

西岡がまず最初に彼らに教えたのは、大根の栽培である。種は日本から持ち込んでいた。畑の耕し、種のまき方、土のかけ方、一つ一つを丁寧に少年たちに実演して見せてあげた。大根は夜と昼の寒暖の差が大きい程、よく育つ。7月末には、それまでブータンでは見たことのない大きな大根が育っていた。1年目の出だしは、まずまずの成果と言えよう  2年目には、試験農場を水はけの良い高台に移してもらった。広さも3倍になる。この頃になると、試験農場の噂が広まり、知事や国会議員がつぎつぎに試験農場を訪問するようになっていた。その一人の助言で、試験農場で栽培された野菜を国会議事堂前で展示してみた。これが大評判となり、訪問客も増えていった。

2年の任期が切れようとする頃、西岡は悩んでいた。ようやくブータンの農業がわかりかけてきた。ここで帰国してしまえば、当初の目的を果たせないし、この2年間も無駄になる。こんな気持ちで悶々としている頃、国王から任期延長の話が飛び込んできた。願ってもないことである。この2年の努力を国王が評価してくれたのだ。さらに、国王から広い農場用地を提供するという申し出もあった。彼は、「ブータンに来て、これほど嬉しかったことはなかった」と語っている。彼のブータンにかける意気込みは生半可なものではなかったのである。この時作られた農場が、ブータン農業の近代化を担っていくパロ農場である。

稲の増産

1971年は、ブータンの農業史において画期的な年となった。パロ農場以外の農家の田圃で初めて「並木植え」の田植えが行なわれた。並木植えとは、縦と横の一定間隔で苗を植える方法で、日本では昔から行われていた。しかし、ブータンでは勝手気ままな植え方をしているため、手押しの除草機が使えないし、苗と苗の間の風通しも悪く、成育によくなかった。西岡は、これをなんとか改めようとしたが、昔からの農法を変えるのは簡単なことではない。

まだ一部とはいえ、初めてそれを実行する農家が現われたのである。しかし、収穫量がもし上がらなければ信頼は一気に失われる。西岡は祈るような気持ちで稲の成育を見守った。結果は、並木植えに変えただけで、40%の増産。西岡は胸を撫で下ろした。 パロ盆地では、数年のうちに約半数の農家が並木植えに変わり、現在ではパロ盆地の8割は並木植えになっている。その効果を誰もが認めたからである。

シェムガン県の開発

1976年から80年までの4年間、国王直々の立案によるシェムガン県の開発プロジェクトに責任者として携わることになる。このシェムガン県は、貧しいブータンの中でも極貧地域で、中央から忘れられた土地と言われていた。人々は昔からの焼畑農法に頼っていた。収穫量が下がると新しい土地に移住して、また森を焼き、畑を作る。それを繰り返す生活だった。

西岡はここに10人のスタッフと一緒に乗り込んだ。一番困難であったのは、この地域の人々を説得することであった。西岡の粘り強い説得が続いた。村人との話し合いは、800回に及んだという。中尾佐助が見込んだ通り、実直で忍耐強い彼の性格がここにおいて生かされた。西岡の考えは、「身の丈に合った開発」である。いたずらに莫大な費用をかけるのはよくない。自分たちのやれることは極力自分たちの手で行なう。最小の費用で最大の効果。西岡の信念である。

古い壊れかけたつり橋をつけ変えるにしても、コンクリート製の橋を作るのではなく、耐久性に優れたワイヤーロープ製のつり橋を作ることにした。費用も安くつくし、地元のつり橋架橋技術も生かされる。これで17本のつり橋が新しく作り変えられた。水田に水路を引くにも、塩化ビニール製のパイプや竹を利用した。合計360本もの水路が完成したという。彼らの手で新たに作られた道路は、全長300キロメートルにも達した。

この開発期間で彼らがシェムガン県に開いた水田は60ヘクタールに及んだ。それまで水田は1・2ヘクタールしかなかったので、なんと50倍に拡大した。極貧地域は驚くべき変化を遂げた。生活が安定した。子供たちが学ぶ学校もできた。診療所もでき医者も定期的に来てくれる。何よりも、定住地ができたことは大きい。村人は口々に西岡にお礼を言った。「はじめに西岡さんが言ってくれた通りになった。お礼をいいます」と。別れの時、村人の多くは涙で西岡を見送った。

「ダショー」の称号

1980年、西岡は長年のブータン農業への貢献を評価されて、国王から「ダショー」の称号を受けた。ダショーとは英語のベストを意味し、「最高に優れた人」という意味である。これは県知事や最高裁判所の判事クラスしかもらえない称号で、ブータンでは最も栄誉あることであった。この時、すでに16年の歳月が過ぎていた。76年にシェムガン県の開発に携わるとき、妻の里子は7歳になる娘の教育も考えて、帰国しているので、この4年間は全くの単身での生活だった。

それからさらに12年間、西岡のブータン生活が続いた。1992年3月21日、日本にいる妻のもとに一本の国際電話が入った。ブータンからであった。電話の主はうわずった絞り出すような声で、「ダショー・ニシオカが亡くなられました。昨晩、病院に入院したところ、病状が急変しまして……」。突然の訃報に動転しながらも、「葬式はどうなさいますか」との質問に、里子はとっさに「パロでお願いします。ブータンの葬式のしかたでお願いします」と答えた。ブータンで28年間、ブータン人になりきって、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ夫である。そう願っていると彼女は確信した。

西岡の葬儀は、妻と娘の到着を待って3月26日に行われた。農業大臣が葬儀委員長を務める国葬であった。ラマ教の僧侶の読経が絶えまなく続き、ブータンの山々にこだました。パロ盆地が見渡せる丘に作られた葬儀場で、遺体はしめやかに荼毘にふされた。彼を慕う5千人に及ぶ人々が、ブータン全土から弔問に集まった。ブータンでこれまで誰も経験したことのないほど立派で盛大な葬式であった。ブータンは国をあげて、西岡に感謝の心を捧げたのである。

西岡はブータンの土地に今なお眠っている。そこは、パロの人々と収穫の喜びを分かち合った土地である。西岡の心の中にブータンが常にあったように、ブータンの人々の記憶の中に今でも西岡京治は生きている。


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ブータンのパロ空港の南西の丘に建っている、故・西岡京治氏を祀るチョルテン(仏塔)

nishioka buttou4
日本語で西岡氏の功績が讃えられている

nishioka buttou3
日本語で記された西岡チョルテンの案内板

参考サイト
http://4travel.jp/overseas/area/asia/bhutan/paro/travelogue/10552470/




(コメント)
日本人と、チベット近辺に住んでいる人達(ブータンを含む)は遺伝子的に非常に似通っていて、共にYAP遺伝子を有していることでも知られている。昨年来日したブータン国王夫妻の顔立ちも日本人そっくりで、紋付袴を着たブータン国王の姿は日本人より様になっていた。ブータンの民族衣装も日本の着物に良く似ており、ブータンの小さい子供達の姿を見ると、昔の日本の子供達の姿を連想してしまうほどである。恐らく過去に何らかの歴史的なつながりがあったものと推測されるが、日本人の遠い親戚が今もブータンやチベットで生活していると考えると、世界を見渡す視点も少し変わってくるのかもしれない。

故・西岡京治氏のブータンでの農業指導は、今でも日本の国際協力でもっとも成功した例として取り上げられることが多いが、西岡氏の実現した奇跡的な貢献が、ブータン国民の親日感情に大きく寄与し、その結果、日本にもたらされた外交的成果は計り知れないものがある。なにせ国連で日本がいじめられた際、必ず日本側に立って擁護してくれる国の一つがブータンなのだから。

本来ならNHKがとっくにドラマか何かを作っていても良いような話だが、毎年しつこくプロパガンダ丸出しの反戦反日番組は流すくせに、日本人を讃えるドラマはめったに作ることはしないのがNHKのクオリティー。公共放送でこの有様なのだから、民放のフジテレビが、あろうことかブータン国王夫妻の物まねを三流芸人にやらせるくらいは、驚くに値しないのかもしれない。日本の地上波テレビ局にはもれなく朝鮮系の人間が入り込んでいるので、テレビの放送内容と、日本人の価値観との乖離が出るのは、予想の範囲内と言えば範囲内である。

日本のテレビ局がどうしようもなく反日で民度が低くとも、テレビ自体の利便性を否定することは難しいが、最近ではニュースやスポーツ番組くらいしか、テレビを見た記憶がない。昔は年末年始ともなれば、テレビ番組のガイド誌を買ってきて一生懸命、番組のチェックをしていたものだが、韓国人が出演するようになってから紅白歌合戦も見ることはなくなった。西岡京治物語でも作ってくれれば、喜んでテレビを見ると思うが、まあ、いつになることやらという感じである。

西岡氏は今もブータンの地に眠っているが、日本人の一人として感謝の意を表すと共に、彼の地で安らかに眠られることをお祈りする次第である。










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日本海軍の名参謀 秋山真之の褌論(ふんどしろん)

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臍の下二寸の処を締めて居るが肝要

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秋山 真之(あきやま さねゆき)
慶応4年3月20日(1868年4月12日) - 大正7年(1918年)2月4日。大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。ロシアのバルチック艦隊の迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献した帝国海軍屈指の名参謀。

1907年(明治40年)、ハワイのセントルイス野球団が日本に来て慶応大学と試合を行ったが、慶応はそれまで連戦連敗であり、最後の試合には、日本の名誉のためにもどうしても勝たなければならないという非常に重大な局面に立たされていた。その頃、毎日のようにネット裏でその試合を見ていた日本海軍の名参謀、秋山真之は、慶応大学野球部に、この「褌論」の書簡を送り、褌(ふんどし)で丹田を締め付ける効用を説いた。これを受取った選手達は文字通り褌を締め直して元気を取り戻し、最後の試合に勝つことができたという。

前略

武士が戦場に臨むにも相撲取りが土俵に上るにも或は又碁打ちが碁盤に対するにも総て其方面の勝負には之れ無くては叶はぬ必要にて 其効用は「決して睾丸の保護には無之」 実に左記の如き偉大なる効能有之に依る次第に御座候

一、心気を丹田に落着け 従って逆上を防ぎ智力気力の発作を自在にする事

二、腹部に体力を保持し 従って腕力の発作を大にする事

三、気息を容易にし従って息切れを防ぐ事

四、身体の中心と重心とを一致せしめ 従って体を軽くし歩速を増加する事

此等の効用顕著なるは小生が多年実験する処にて 日露戦争中黄海日本海等にも小生は先づ褌を締めて艦橋に上り 確に心気の動揺を防圧し得たる様相覚へ居候

又昔時東海道を早打が二重に褌を締め白木綿に腹を巻き締めて此の長途を三日間に往復したりとの実例に照しても 其効能明白に御座候 然るに近時の青年諸君は世俗の進化と共に此の褌の大効用を知られざる方多く 越中褌又は普通猿股等を用ひらるる故に腹に力が入らず 血が頭脳にのみ逆上する為め 咄嗟危急の場合等に処して肝要なる虚心平気の態度を失ひ 従って出るべき智能も技量も出し得ざる事有之候

無論貴選手等には斯の如き事萬々有之間敷候へ共小生が昨日老婆心より見たる処にては 未だ腹に締りが足らざる様相見受申候 堵て其褌の締方如何と申せば臍の下約二寸の処に巻き更に股に掛け上方に滑り上るを防ぐ事と同時に睾丸を緊縮し 最後に背筋の中央を扼する事が至極効能有之即ち総ての力は此点より湧出と見るものに御座候 

又其の締め加減は余り堅過ぎても宜しからず 締上たる処で丁度五本の指を平たく入れて通るか通らぬか適度に御座候 若し又日本流の六尺褌が習慣上具合悪しければ越中褌の紐を一尺の木綿にて巻き締められても宣しく 要するに臍の下二寸の処を締めて居るが肝要に御座候

兎に角緊褌一番を実験し御試に被成候得ば必ず多少の効能は可有之 五十間飛ぶ球が六十間飛び五秒掛る所を四秒に走り三度の過失が二度で済む位の事は確に候

小生目下海軍に奉職致し居り候 其の昔大学予備門に在りたる頃は随分野球に耽りたるものにて貴校の今回の対外御試合も真に不少趣味を以て拝観致し居り 今後両回の御勝負は実に帝国腕力の名誉に関する者と相心得是非共貴選手の大勝に帰する様希望致し 老婆心の発する所を書流して申進候 御笑味被下候得ば本懐の至りに御座候 不一

明治四十年十一月十三日      秋山眞之
   
慶應義塾   野球選手各位


(コメント)
秋山真之と言えば、司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」の主人公として有名であり、日露戦争の帰趨を決めた、日本海海戦の時の連合艦隊の作戦参謀として知られている。NHKで12月に「坂の上の雲」のドラマが放映されているので、最近は知名度が上がったようだが、日本人が誇っていい軍人の一人であることは間違いない。

少尉候補生時代、後輩から「猛勉強しているわけではないのになぜいつも成績がトップなのか?」と聞かれた真之は「過去の試験問題を参考にすることと、教官のクセを見抜くことだ。また必要な部分は何回も説明することから試験問題を推測できる」と答えたエピソードがある。言うのは誰でも簡単だが、実際に真之は海軍兵学校を首席で卒業しているので、やはり頭の出来が違ったのだろう。

幼少の頃は腕白なガキ大将だったらしく、多くの子供を引き連れて戦争ごっこをするにとどまらず、本を参考に花火を作って打ち上げたりするほどだった。あまりにも腕白が過ぎるため、母親の貞は「お前も殺して私も死ぬ」と言って涙を見せるほど手を焼いたと言われている。実兄である陸軍大将の秋山好古も、ロシアのコサック兵を破った名軍人だが、日露戦争での日本の勝利は秋山兄弟の活躍を抜きには語れないように思う。

褌論は、明治大正期の優秀な軍人らしく、文語体を織り交ぜた教養豊かな文章で書かれており、正直、現代の日本人にはやや読むのが難しいが、要約すると「ヘソの2寸下(約6センチ下)を適度に褌や帯で締めれば、頭に血が上ることなく気力や知力を適宜自由に発揮出来、体力は増加し、普段は三度失敗しているようなものでも、二度の失敗で済むようになる」ということに尽きる。真之の褌論を参考にした慶大野球部は最終戦で見事に勝利出来たようだが、真之直筆の褌論は戦災で焼けてしまい、残念ながら原文は残っていないそうである。

試しに不要な安物のネクタイなどを利用して臍下2寸を締めてみると、なるほどなかなか具合がいい。現代の日本で普段からフンドシを締めろというのは無理な話だが、丹田の鍛錬や実生活にいろいろと応用は利くと思うので、是非参考にしていただきたいと思う。妊娠中以外なら女性がヘソの下2寸を締めても問題はなく、同様の効果が期待出来ると思うので、女性の方も参考にしていただきたい。


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