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Category : 日本の偉人に学ぶ

ブータン農業の父 西岡京治

                                   
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ブータンで最も尊敬された日本人 西岡京治 

nishioka.jpg
今もブータン農業の父と讃えられる故・西岡京治氏

引用元
http://www.ifsa.jp/index.php?kiji-sekai-nishioka.htm

国際協力事業のモデルとなる身の丈にあった開発を

神秘の国ブータンで、一人の日本人が28年間、農業技術指導を行った。農作物の生産力を飛躍的に増大させ、若いリーダーの育成に成功した。一人の日本人の「無私の貢献」がブータンの未来を拓いた。ブータンを愛し、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ西岡京治は、日本人の誇りである。

神秘の国ブータンで農業指導

西岡京治は隠れた偉人である。日本人で彼を知っている者は、ほとんどいない。しかし、ヒマラヤの小国ブータンでは、最も有名な日本人である。彼はこのブータンに渡り、28年間という長期間、この国で農業指導に携わってきた。日本の国際協力事業の最も成功した例として西岡京治は記憶されている

そもそも、日本人はブータンという国そのものをほとんど知らない。神秘の国なのである。人口は100万人程度で、国民の大半は農業で生計を立てている。しかし、国土の大半は山と谷であるため、田畑に使える土地は1割程度。農業自給率が極めて低く、60パーセント程であった。西岡はこうしたブータンの問題に真っ正面から取り組んで、28年間ブータンの農業指導に自分の人生を捧げたのである。

恩師中尾佐助の推薦

西岡京治がブータンと関わりを持ち始めるきっかけは、恩師中尾佐助助教授との出会いからはじまる。西岡は大阪府立大学農学部の学生で、中尾はその助教授であった。彼はかねてから、ヒマラヤ地方の植物の生態に関心を持っており、1958年、日本人としてはじめて、ブータン政府の正式な招きを受けて入国した。

この時、中尾はブータンのドルジ首相から、農業専門家を派遣してほしいとの依頼を受けた。ブータンの農業指導にあたるには、ブータンの人々の生活に溶け込んで、「あの人の言うことなら間違いない」という信頼を受けなければならない。中尾は西岡を推薦することにした。穏やかで謙譲、友誼に厚く、誠実で努力家である西岡は、根気と忍耐が予想されるブータンでの生活に最適な人材と中尾は考えたのである。

ブータン到着

1964年4月23日、西岡は新妻里子を伴いブータンに向かって飛び立った。目的地はブータンのパロである。パロはパロ県の中心の町で、西岡が20数年間住み着いて農業指導した町である。西岡は、さっそく開発庁農業局の事務所に出向いた。そこで最初の壁に直面することになる。この事務所の局長も職員もインド政府から派遣されたインド人で、全て彼らが取り仕切っていた。西岡は歓迎されていなかった。局長は、ブータンの農業事情を一番よく知っているのは、自分たちインド人で、海の向こうの日本人に何がわかるかと言わんばかりの態度であった。

こうした冷たい歓迎を受けながらも、到着早々、それにめげるわけにはいかない。彼らを納得させるには、実際に試験栽培で見せるしかない。ところが、ブータンにはまともな試験農場が一つもないのである。彼の最初の仕事は、政府に働きかけて試験農場の土地を提供してもらうことであった。

試験農場での野菜栽培

政府が提供した最初の試験農場は、2百平方メートル程の小さなものであったが、とにかくここから始めるしかない。政府はまた3人の少年を実習生として付けてくれた。まだ12、3歳の少年たちである。彼らが、後にブータン農業を担う人材に成長する。

西岡がまず最初に彼らに教えたのは、大根の栽培である。種は日本から持ち込んでいた。畑の耕し、種のまき方、土のかけ方、一つ一つを丁寧に少年たちに実演して見せてあげた。大根は夜と昼の寒暖の差が大きい程、よく育つ。7月末には、それまでブータンでは見たことのない大きな大根が育っていた。1年目の出だしは、まずまずの成果と言えよう  2年目には、試験農場を水はけの良い高台に移してもらった。広さも3倍になる。この頃になると、試験農場の噂が広まり、知事や国会議員がつぎつぎに試験農場を訪問するようになっていた。その一人の助言で、試験農場で栽培された野菜を国会議事堂前で展示してみた。これが大評判となり、訪問客も増えていった。

2年の任期が切れようとする頃、西岡は悩んでいた。ようやくブータンの農業がわかりかけてきた。ここで帰国してしまえば、当初の目的を果たせないし、この2年間も無駄になる。こんな気持ちで悶々としている頃、国王から任期延長の話が飛び込んできた。願ってもないことである。この2年の努力を国王が評価してくれたのだ。さらに、国王から広い農場用地を提供するという申し出もあった。彼は、「ブータンに来て、これほど嬉しかったことはなかった」と語っている。彼のブータンにかける意気込みは生半可なものではなかったのである。この時作られた農場が、ブータン農業の近代化を担っていくパロ農場である。

稲の増産

1971年は、ブータンの農業史において画期的な年となった。パロ農場以外の農家の田圃で初めて「並木植え」の田植えが行なわれた。並木植えとは、縦と横の一定間隔で苗を植える方法で、日本では昔から行われていた。しかし、ブータンでは勝手気ままな植え方をしているため、手押しの除草機が使えないし、苗と苗の間の風通しも悪く、成育によくなかった。西岡は、これをなんとか改めようとしたが、昔からの農法を変えるのは簡単なことではない。

まだ一部とはいえ、初めてそれを実行する農家が現われたのである。しかし、収穫量がもし上がらなければ信頼は一気に失われる。西岡は祈るような気持ちで稲の成育を見守った。結果は、並木植えに変えただけで、40%の増産。西岡は胸を撫で下ろした。 パロ盆地では、数年のうちに約半数の農家が並木植えに変わり、現在ではパロ盆地の8割は並木植えになっている。その効果を誰もが認めたからである。

シェムガン県の開発

1976年から80年までの4年間、国王直々の立案によるシェムガン県の開発プロジェクトに責任者として携わることになる。このシェムガン県は、貧しいブータンの中でも極貧地域で、中央から忘れられた土地と言われていた。人々は昔からの焼畑農法に頼っていた。収穫量が下がると新しい土地に移住して、また森を焼き、畑を作る。それを繰り返す生活だった。

西岡はここに10人のスタッフと一緒に乗り込んだ。一番困難であったのは、この地域の人々を説得することであった。西岡の粘り強い説得が続いた。村人との話し合いは、800回に及んだという。中尾佐助が見込んだ通り、実直で忍耐強い彼の性格がここにおいて生かされた。西岡の考えは、「身の丈に合った開発」である。いたずらに莫大な費用をかけるのはよくない。自分たちのやれることは極力自分たちの手で行なう。最小の費用で最大の効果。西岡の信念である。

古い壊れかけたつり橋をつけ変えるにしても、コンクリート製の橋を作るのではなく、耐久性に優れたワイヤーロープ製のつり橋を作ることにした。費用も安くつくし、地元のつり橋架橋技術も生かされる。これで17本のつり橋が新しく作り変えられた。水田に水路を引くにも、塩化ビニール製のパイプや竹を利用した。合計360本もの水路が完成したという。彼らの手で新たに作られた道路は、全長300キロメートルにも達した。

この開発期間で彼らがシェムガン県に開いた水田は60ヘクタールに及んだ。それまで水田は1・2ヘクタールしかなかったので、なんと50倍に拡大した。極貧地域は驚くべき変化を遂げた。生活が安定した。子供たちが学ぶ学校もできた。診療所もでき医者も定期的に来てくれる。何よりも、定住地ができたことは大きい。村人は口々に西岡にお礼を言った。「はじめに西岡さんが言ってくれた通りになった。お礼をいいます」と。別れの時、村人の多くは涙で西岡を見送った。

「ダショー」の称号

1980年、西岡は長年のブータン農業への貢献を評価されて、国王から「ダショー」の称号を受けた。ダショーとは英語のベストを意味し、「最高に優れた人」という意味である。これは県知事や最高裁判所の判事クラスしかもらえない称号で、ブータンでは最も栄誉あることであった。この時、すでに16年の歳月が過ぎていた。76年にシェムガン県の開発に携わるとき、妻の里子は7歳になる娘の教育も考えて、帰国しているので、この4年間は全くの単身での生活だった。

それからさらに12年間、西岡のブータン生活が続いた。1992年3月21日、日本にいる妻のもとに一本の国際電話が入った。ブータンからであった。電話の主はうわずった絞り出すような声で、「ダショー・ニシオカが亡くなられました。昨晩、病院に入院したところ、病状が急変しまして……」。突然の訃報に動転しながらも、「葬式はどうなさいますか」との質問に、里子はとっさに「パロでお願いします。ブータンの葬式のしかたでお願いします」と答えた。ブータンで28年間、ブータン人になりきって、ブータンのために生き、ブータンのために死んだ夫である。そう願っていると彼女は確信した。

西岡の葬儀は、妻と娘の到着を待って3月26日に行われた。農業大臣が葬儀委員長を務める国葬であった。ラマ教の僧侶の読経が絶えまなく続き、ブータンの山々にこだました。パロ盆地が見渡せる丘に作られた葬儀場で、遺体はしめやかに荼毘にふされた。彼を慕う5千人に及ぶ人々が、ブータン全土から弔問に集まった。ブータンでこれまで誰も経験したことのないほど立派で盛大な葬式であった。ブータンは国をあげて、西岡に感謝の心を捧げたのである。

西岡はブータンの土地に今なお眠っている。そこは、パロの人々と収穫の喜びを分かち合った土地である。西岡の心の中にブータンが常にあったように、ブータンの人々の記憶の中に今でも西岡京治は生きている。


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ブータンのパロ空港の南西の丘に建っている、故・西岡京治氏を祀るチョルテン(仏塔)

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日本語で西岡氏の功績が讃えられている

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日本語で記された西岡チョルテンの案内板

参考サイト
http://4travel.jp/overseas/area/asia/bhutan/paro/travelogue/10552470/




(コメント)
日本人と、チベット近辺に住んでいる人達(ブータンを含む)は遺伝子的に非常に似通っていて、共にYAP遺伝子を有していることでも知られている。昨年来日したブータン国王夫妻の顔立ちも日本人そっくりで、紋付袴を着たブータン国王の姿は日本人より様になっていた。ブータンの民族衣装も日本の着物に良く似ており、ブータンの小さい子供達の姿を見ると、昔の日本の子供達の姿を連想してしまうほどである。恐らく過去に何らかの歴史的なつながりがあったものと推測されるが、日本人の遠い親戚が今もブータンやチベットで生活していると考えると、世界を見渡す視点も少し変わってくるのかもしれない。

故・西岡京治氏のブータンでの農業指導は、今でも日本の国際協力でもっとも成功した例として取り上げられることが多いが、西岡氏の実現した奇跡的な貢献が、ブータン国民の親日感情に大きく寄与し、その結果、日本にもたらされた外交的成果は計り知れないものがある。なにせ国連で日本がいじめられた際、必ず日本側に立って擁護してくれる国の一つがブータンなのだから。

本来ならNHKがとっくにドラマか何かを作っていても良いような話だが、毎年しつこくプロパガンダ丸出しの反戦反日番組は流すくせに、日本人を讃えるドラマはめったに作ることはしないのがNHKのクオリティー。公共放送でこの有様なのだから、民放のフジテレビが、あろうことかブータン国王夫妻の物まねを三流芸人にやらせるくらいは、驚くに値しないのかもしれない。日本の地上波テレビ局にはもれなく朝鮮系の人間が入り込んでいるので、テレビの放送内容と、日本人の価値観との乖離が出るのは、予想の範囲内と言えば範囲内である。

日本のテレビ局がどうしようもなく反日で民度が低くとも、テレビ自体の利便性を否定することは難しいが、最近ではニュースやスポーツ番組くらいしか、テレビを見た記憶がない。昔は年末年始ともなれば、テレビ番組のガイド誌を買ってきて一生懸命、番組のチェックをしていたものだが、韓国人が出演するようになってから紅白歌合戦も見ることはなくなった。西岡京治物語でも作ってくれれば、喜んでテレビを見ると思うが、まあ、いつになることやらという感じである。

西岡氏は今もブータンの地に眠っているが、日本人の一人として感謝の意を表すと共に、彼の地で安らかに眠られることをお祈りする次第である。










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日本海軍の名参謀 秋山真之の褌論(ふんどしろん)

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臍の下二寸の処を締めて居るが肝要

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秋山 真之(あきやま さねゆき)
慶応4年3月20日(1868年4月12日) - 大正7年(1918年)2月4日。大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。ロシアのバルチック艦隊の迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献した帝国海軍屈指の名参謀。

1907年(明治40年)、ハワイのセントルイス野球団が日本に来て慶応大学と試合を行ったが、慶応はそれまで連戦連敗であり、最後の試合には、日本の名誉のためにもどうしても勝たなければならないという非常に重大な局面に立たされていた。その頃、毎日のようにネット裏でその試合を見ていた日本海軍の名参謀、秋山真之は、慶応大学野球部に、この「褌論」の書簡を送り、褌(ふんどし)で丹田を締め付ける効用を説いた。これを受取った選手達は文字通り褌を締め直して元気を取り戻し、最後の試合に勝つことができたという。

前略

武士が戦場に臨むにも相撲取りが土俵に上るにも或は又碁打ちが碁盤に対するにも総て其方面の勝負には之れ無くては叶はぬ必要にて 其効用は「決して睾丸の保護には無之」 実に左記の如き偉大なる効能有之に依る次第に御座候

一、心気を丹田に落着け 従って逆上を防ぎ智力気力の発作を自在にする事

二、腹部に体力を保持し 従って腕力の発作を大にする事

三、気息を容易にし従って息切れを防ぐ事

四、身体の中心と重心とを一致せしめ 従って体を軽くし歩速を増加する事

此等の効用顕著なるは小生が多年実験する処にて 日露戦争中黄海日本海等にも小生は先づ褌を締めて艦橋に上り 確に心気の動揺を防圧し得たる様相覚へ居候

又昔時東海道を早打が二重に褌を締め白木綿に腹を巻き締めて此の長途を三日間に往復したりとの実例に照しても 其効能明白に御座候 然るに近時の青年諸君は世俗の進化と共に此の褌の大効用を知られざる方多く 越中褌又は普通猿股等を用ひらるる故に腹に力が入らず 血が頭脳にのみ逆上する為め 咄嗟危急の場合等に処して肝要なる虚心平気の態度を失ひ 従って出るべき智能も技量も出し得ざる事有之候

無論貴選手等には斯の如き事萬々有之間敷候へ共小生が昨日老婆心より見たる処にては 未だ腹に締りが足らざる様相見受申候 堵て其褌の締方如何と申せば臍の下約二寸の処に巻き更に股に掛け上方に滑り上るを防ぐ事と同時に睾丸を緊縮し 最後に背筋の中央を扼する事が至極効能有之即ち総ての力は此点より湧出と見るものに御座候 

又其の締め加減は余り堅過ぎても宜しからず 締上たる処で丁度五本の指を平たく入れて通るか通らぬか適度に御座候 若し又日本流の六尺褌が習慣上具合悪しければ越中褌の紐を一尺の木綿にて巻き締められても宣しく 要するに臍の下二寸の処を締めて居るが肝要に御座候

兎に角緊褌一番を実験し御試に被成候得ば必ず多少の効能は可有之 五十間飛ぶ球が六十間飛び五秒掛る所を四秒に走り三度の過失が二度で済む位の事は確に候

小生目下海軍に奉職致し居り候 其の昔大学予備門に在りたる頃は随分野球に耽りたるものにて貴校の今回の対外御試合も真に不少趣味を以て拝観致し居り 今後両回の御勝負は実に帝国腕力の名誉に関する者と相心得是非共貴選手の大勝に帰する様希望致し 老婆心の発する所を書流して申進候 御笑味被下候得ば本懐の至りに御座候 不一

明治四十年十一月十三日      秋山眞之
   
慶應義塾   野球選手各位


(コメント)
秋山真之と言えば、司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」の主人公として有名であり、日露戦争の帰趨を決めた、日本海海戦の時の連合艦隊の作戦参謀として知られている。NHKで12月に「坂の上の雲」のドラマが放映されているので、最近は知名度が上がったようだが、日本人が誇っていい軍人の一人であることは間違いない。

少尉候補生時代、後輩から「猛勉強しているわけではないのになぜいつも成績がトップなのか?」と聞かれた真之は「過去の試験問題を参考にすることと、教官のクセを見抜くことだ。また必要な部分は何回も説明することから試験問題を推測できる」と答えたエピソードがある。言うのは誰でも簡単だが、実際に真之は海軍兵学校を首席で卒業しているので、やはり頭の出来が違ったのだろう。

幼少の頃は腕白なガキ大将だったらしく、多くの子供を引き連れて戦争ごっこをするにとどまらず、本を参考に花火を作って打ち上げたりするほどだった。あまりにも腕白が過ぎるため、母親の貞は「お前も殺して私も死ぬ」と言って涙を見せるほど手を焼いたと言われている。実兄である陸軍大将の秋山好古も、ロシアのコサック兵を破った名軍人だが、日露戦争での日本の勝利は秋山兄弟の活躍を抜きには語れないように思う。

褌論は、明治大正期の優秀な軍人らしく、文語体を織り交ぜた教養豊かな文章で書かれており、正直、現代の日本人にはやや読むのが難しいが、要約すると「ヘソの2寸下(約6センチ下)を適度に褌や帯で締めれば、頭に血が上ることなく気力や知力を適宜自由に発揮出来、体力は増加し、普段は三度失敗しているようなものでも、二度の失敗で済むようになる」ということに尽きる。真之の褌論を参考にした慶大野球部は最終戦で見事に勝利出来たようだが、真之直筆の褌論は戦災で焼けてしまい、残念ながら原文は残っていないそうである。

試しに不要な安物のネクタイなどを利用して臍下2寸を締めてみると、なるほどなかなか具合がいい。現代の日本で普段からフンドシを締めろというのは無理な話だが、丹田の鍛錬や実生活にいろいろと応用は利くと思うので、是非参考にしていただきたいと思う。妊娠中以外なら女性がヘソの下2寸を締めても問題はなく、同様の効果が期待出来ると思うので、女性の方も参考にしていただきたい。


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逝きし世の面影

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「逝きし世の面影」は、江戸時代の末期から明治時代の初期にかけて日本を訪れ、世界に類を見ない日本の精神文明を体験した欧米人の手記や書簡を掲載している渡辺京二氏の著作である。今回はこちらのサイトを参考に、いくつかその内容を紹介してみたい。



幸福そうな日本人

『この人たちは実に日本の大きな魅力である。......幸福で礼儀正しく穏やかであり、温和しい声で何時もニコニコしながらお喋りをし、ちょっとしたことからも健やかな喜びを吸収する恵まれた素質を持ち、何時間となく続けてトボトボ歩いてあちらこちら見物しても、決してへばらない羨ましい身体と脚を持っているなどの点で、日本の楽しい群衆にひけをとらないものがあると公言できる国など何処にもあるまい』『日本の庶民はなんと楽天的で心優しいのだろうか。なんと満足気に、身ぎれいにこの人たちは見えることだろう(パーマー)』

『これ以上幸せそうな人びとはどこを探しても見つからない。喋り笑いながら彼らは行く。人夫は担いだ荷のバランスをとりながら、鼻歌をうたいつつ進む。遠くでも近くでも、『おはよう』『おはようございます』とか、『さよなら、さよなら』というきれいな挨拶が空気をみたす。夜なら『おやすみなさい』という挨拶が。この小さい人びとが街頭でおたがいに交わす深いお辞儀は、優雅さと明白な善意を示していて魅力的だ。一介の人力車夫でさえ、知り合いと出会ったり、客と取りきめをしたりする時は、一流の行儀作法の先生みたいな様子で身をかがめる(アーノルド,1889)』


『この町でもっとも印象的なのは(そしてそれはわれわれの全員による日本での一般的観察であった)男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった(オズボーン)』

『封建制度一般、つまり日本を現在まで支配してきた機構について何といわれ何と考えられようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。すなわち、ヨーロッパ人が到来した時からごく最近に至るまで、人々は幸せで満足していたのである(ヒューブナー,1871)』

誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、その場所の雰囲気にぴったりと融けあう。彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている(パーマー,1886)』

『彼ら(駕籠かきの三人)はあまり欲もなく、いつも満足して喜んでさえおり、気分にむらがなく、幾分荒々しい外観は呈しているものの、確かに国民のなかで最も健全な人々を代表している。このような庶民階級に至るまで、行儀は申し分ない(ブスケ,1872)』

親切で礼儀正しい日本人

『住民が鍵もかけず、なんらの防犯策も講じずに、一日中家を空けて心配しないのは、彼らの正直さを如実に物語っている(クロウ)』

『私は全ての持ち物を、ささやかなお金を含めて、鍵も掛けずにおいていたが、一度たりとなくなったことはなかった(ムンツィンガー,1890)』

彼らは不信を抱いたりあつかましく振舞うことは一度もなく、ときには道案内のために、世話好きであるが控えめな態度でかなりの道のりをついて来たり、あるいは子供たちにそれを命じたりした(オイレンブルク使節団)』

『もう暗くなっていたのに、その男はそれを探しに一里も引き返し、私が何銭か与えようとしたのを、目的地まですべての物をきちんと届けるのが自分の責任だと言って拒んだ(バート,1878)』

『彼らの無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持ちよくした。一方婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。さらに、通りがかりに休もうとする欧米人はほとんど例外なく歓待され、『おはよう』という気持ちのよい挨拶を受けた。この挨拶は道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった(ブラック)』

当時の日本人の暮らしぶり

『柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている(ハリス,1856)』

『この土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精一杯で、装飾的なものに目をむける余裕がないからだ(中略)それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。それに家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい(ハリス,1856)』

日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない(カッテンディーケ)』

『彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。ーこれが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる(ハリス,1857)』

『貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない(チェンバレン)』

金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。......ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透しているのである(チェンバレン)』

当時の日本の農業水準

『郊外の豊穣さはあらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田があり、海の際までことごとく耕作されている。恐らく日本は天恵を受けた国、地上のパラダイスであろう。人間がほしいというものが何でも、この幸せな国に集まっている(リュードルフ,1855)』

『日本の農業は完璧に近い。その高い段階に達した状態を考慮に置くならば、この国の面積は非常に莫大な人口を収容することができる(カッテンディーケ)』

『日本人の農業技術はきわめて有効で、おそらく最高の程度にある(メイラン)』

日本人の美意識

『日本の職人は本能的に美意識を強く持っているので、金銭的に儲かろうが関係なく、彼らの手から作り出されるものはみな美しいのです。......庶民が使う安物の陶器を扱っているお店に行くと、色、形、装飾には美の輝きがあります』『ここ日本では、貧しい人の食卓でさえも最高級の優美さと繊細さがある(ベーコン)』

『ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ(ヒューブナー)』

『田舎の旅には楽しみが多いが、その一つは道路に添う美しい生垣、戸口の前の奇麗に掃かれた歩道、室内にある物がすべて小ざっぱりとしていい趣味をあらわしていること、可愛らしい茶呑茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の瘤、花を生けるためにくりぬいた木質のきのこ。これ等の美しい品物はすべて、あたり前の百姓家にあるのである(モース)』

『この国の魅力は下層階級の市井の生活にある。......日常生活の隅々までありふれた品物を美しく飾る技術(チェンバレン)』

日本の封建社会について

『日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も享受していないと普通想像される。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない』『自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している』『日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう(フィッセル,1833)』

『日本人は身分の高い人物の前に出た時でさえめったに物怖じすることのない国民』『青少年に地位と年齢を尊ぶことが教えられる一方、自己の尊厳を主張することも教えられているのである(スエンソン)』

『日本の上層階級は下層の人々を大変大事に扱う』『主人と召使の間には通常、友好的で親密な関係が成り立っており、これは西洋自由諸国にあってまず未知の関係といってよい(スエンソン)』

日本の子供達

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい(モース)』

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊技を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている...(バード)』

『怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身につけてゆく』『彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包みこみ、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いところを伸ばすように思われます。日本の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、誤ちを隠したりはしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです』『それでもけっして彼らが甘やかされてだめになることはありません。分別がつくと見なされる歳になると―いずこも六歳から十歳のあいだですが―彼はみずから進んで主君としての位を退き、ただの一日のうちに大人になってしまうのです(フレイザー婦人)』

『十歳から十二歳位の子どもでも、まるで成人した大人のように賢明かつ落着いた態度をとる(ヴェルナー)』



(コメント)
この「逝きし世の面影」の内容を読んでいると、自分は何とも言えないノスタルジックな気分にさせられる。少なくとも大東亜戦争に敗北し、日本人の大和魂を骨抜きにするGHQの占領政策を受けるまでは、古き良き日本人の美徳というものは確かに存在したように思う。日本人の美徳を持っていた戦前の世代が失われていくにつれ、日本の戦後社会の劣化が始まったと感じるのは自分だけではあるまい。

明治維新後は和魂洋才といって、日本人としての心を持ちながら、西洋の科学技術等を取り入れることが行われたが、それはある程度上手くいっていたように思う。しかし日本が敗戦してGHQに戦後レジームという猛毒を注入されて以来、日本人の多くの意識が緩やかに和魂洋才から洋魂洋才へと変化させられた。最近収監が確定したホリエモンなどが時代の寵児としてもてはやされたこともあったが、彼のこれまでの言動から“和魂”を見出すことは難しい。

今の日本人が持っている美徳は、過去の日本人が当たり前に持っていたものの残滓であり、幻影なのかもしれないと思うことがある。もちろん、昔の日本社会の道徳観を全肯定するわけではないが、現在の日本人よりまともな日本人、尊敬出来る日本人が多かったのは確かな事実だろう。そしてそれは世界的に見ても奇跡に近いレベルだったようである。

今後日本を再生させるためには、形を変えた教育勅語の復活を含め、和魂洋才の復活が欠かせないと思われる。大東亜戦争の敗北という国難による洗礼で日本が改悪されたように、日本を改善するにも“大東亜戦争敗北並みの国難”が必要なのであり、それが東日本大震災に始まる大災害の連続だと考えるのは軽率だろうか。どのみち、今の日本国政府、民主党政権下での日本の復活の可能性は全くのゼロであり、むしろ強烈な“洗礼”が用意されているように感じられる。

個人的な考えに基づくスピリチュアル的な話をすると、アセンションだの次元上昇だの騒いでる現代日本のおめでたい人達の大部分は、彼らが空想しているような魂の選別があった場合、ほとんど生き残れないのではないかと思われる。それは現代の日本人の魂の質が昔の日本人の魂の質に全体として及ばないと感じられるからであり、死者すら甦ると言われる最後の審判では、現代日本人のための席は極めて少ないと思われるからである。

和食の質素な食事や先祖供養などは昔の日本人は当たり前の習慣として行っており、さらにプラスαの意識を持って生活をしていた。神仏や国のために戦った先達を敬いもせず、マスコミの扇動に乗って日本をダメにするような政党に政権を取らせ、平気で国を売るような連中に媚びへつらい、ユダヤ朝鮮の罠に嵌って堕落した今の日本人は、人間の品格という面では、昔の日本人には比べるべくもない。残念ながらそれが真実。日月神示などでは、今の日本人の多くは最後の最後で「鼻高さんポキン」と繰り返し書かれているが、つまりはそういうことだろう。

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