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Category : 日本の偉人に学ぶ

逝きし世の面影

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「逝きし世の面影」は、江戸時代の末期から明治時代の初期にかけて日本を訪れ、世界に類を見ない日本の精神文明を体験した欧米人の手記や書簡を掲載している渡辺京二氏の著作である。今回はこちらのサイトを参考に、いくつかその内容を紹介してみたい。



幸福そうな日本人

『この人たちは実に日本の大きな魅力である。......幸福で礼儀正しく穏やかであり、温和しい声で何時もニコニコしながらお喋りをし、ちょっとしたことからも健やかな喜びを吸収する恵まれた素質を持ち、何時間となく続けてトボトボ歩いてあちらこちら見物しても、決してへばらない羨ましい身体と脚を持っているなどの点で、日本の楽しい群衆にひけをとらないものがあると公言できる国など何処にもあるまい』『日本の庶民はなんと楽天的で心優しいのだろうか。なんと満足気に、身ぎれいにこの人たちは見えることだろう(パーマー)』

『これ以上幸せそうな人びとはどこを探しても見つからない。喋り笑いながら彼らは行く。人夫は担いだ荷のバランスをとりながら、鼻歌をうたいつつ進む。遠くでも近くでも、『おはよう』『おはようございます』とか、『さよなら、さよなら』というきれいな挨拶が空気をみたす。夜なら『おやすみなさい』という挨拶が。この小さい人びとが街頭でおたがいに交わす深いお辞儀は、優雅さと明白な善意を示していて魅力的だ。一介の人力車夫でさえ、知り合いと出会ったり、客と取りきめをしたりする時は、一流の行儀作法の先生みたいな様子で身をかがめる(アーノルド,1889)』


『この町でもっとも印象的なのは(そしてそれはわれわれの全員による日本での一般的観察であった)男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった(オズボーン)』

『封建制度一般、つまり日本を現在まで支配してきた機構について何といわれ何と考えられようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。すなわち、ヨーロッパ人が到来した時からごく最近に至るまで、人々は幸せで満足していたのである(ヒューブナー,1871)』

誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、その場所の雰囲気にぴったりと融けあう。彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている(パーマー,1886)』

『彼ら(駕籠かきの三人)はあまり欲もなく、いつも満足して喜んでさえおり、気分にむらがなく、幾分荒々しい外観は呈しているものの、確かに国民のなかで最も健全な人々を代表している。このような庶民階級に至るまで、行儀は申し分ない(ブスケ,1872)』

親切で礼儀正しい日本人

『住民が鍵もかけず、なんらの防犯策も講じずに、一日中家を空けて心配しないのは、彼らの正直さを如実に物語っている(クロウ)』

『私は全ての持ち物を、ささやかなお金を含めて、鍵も掛けずにおいていたが、一度たりとなくなったことはなかった(ムンツィンガー,1890)』

彼らは不信を抱いたりあつかましく振舞うことは一度もなく、ときには道案内のために、世話好きであるが控えめな態度でかなりの道のりをついて来たり、あるいは子供たちにそれを命じたりした(オイレンブルク使節団)』

『もう暗くなっていたのに、その男はそれを探しに一里も引き返し、私が何銭か与えようとしたのを、目的地まですべての物をきちんと届けるのが自分の責任だと言って拒んだ(バート,1878)』

『彼らの無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持ちよくした。一方婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。さらに、通りがかりに休もうとする欧米人はほとんど例外なく歓待され、『おはよう』という気持ちのよい挨拶を受けた。この挨拶は道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった(ブラック)』

当時の日本人の暮らしぶり

『柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている(ハリス,1856)』

『この土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精一杯で、装飾的なものに目をむける余裕がないからだ(中略)それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困っていない。それに家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい(ハリス,1856)』

日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち、大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない(カッテンディーケ)』

『彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。ーこれが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる(ハリス,1857)』

『貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない(チェンバレン)』

金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。......ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透しているのである(チェンバレン)』

当時の日本の農業水準

『郊外の豊穣さはあらゆる描写を超越している。山の上まで美事な稲田があり、海の際までことごとく耕作されている。恐らく日本は天恵を受けた国、地上のパラダイスであろう。人間がほしいというものが何でも、この幸せな国に集まっている(リュードルフ,1855)』

『日本の農業は完璧に近い。その高い段階に達した状態を考慮に置くならば、この国の面積は非常に莫大な人口を収容することができる(カッテンディーケ)』

『日本人の農業技術はきわめて有効で、おそらく最高の程度にある(メイラン)』

日本人の美意識

『日本の職人は本能的に美意識を強く持っているので、金銭的に儲かろうが関係なく、彼らの手から作り出されるものはみな美しいのです。......庶民が使う安物の陶器を扱っているお店に行くと、色、形、装飾には美の輝きがあります』『ここ日本では、貧しい人の食卓でさえも最高級の優美さと繊細さがある(ベーコン)』

『ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ(ヒューブナー)』

『田舎の旅には楽しみが多いが、その一つは道路に添う美しい生垣、戸口の前の奇麗に掃かれた歩道、室内にある物がすべて小ざっぱりとしていい趣味をあらわしていること、可愛らしい茶呑茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の瘤、花を生けるためにくりぬいた木質のきのこ。これ等の美しい品物はすべて、あたり前の百姓家にあるのである(モース)』

『この国の魅力は下層階級の市井の生活にある。......日常生活の隅々までありふれた品物を美しく飾る技術(チェンバレン)』

日本の封建社会について

『日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も享受していないと普通想像される。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない』『自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している』『日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう(フィッセル,1833)』

『日本人は身分の高い人物の前に出た時でさえめったに物怖じすることのない国民』『青少年に地位と年齢を尊ぶことが教えられる一方、自己の尊厳を主張することも教えられているのである(スエンソン)』

『日本の上層階級は下層の人々を大変大事に扱う』『主人と召使の間には通常、友好的で親密な関係が成り立っており、これは西洋自由諸国にあってまず未知の関係といってよい(スエンソン)』

日本の子供達

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい(モース)』

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊技を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている...(バード)』

『怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身につけてゆく』『彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包みこみ、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いところを伸ばすように思われます。日本の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、誤ちを隠したりはしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです』『それでもけっして彼らが甘やかされてだめになることはありません。分別がつくと見なされる歳になると―いずこも六歳から十歳のあいだですが―彼はみずから進んで主君としての位を退き、ただの一日のうちに大人になってしまうのです(フレイザー婦人)』

『十歳から十二歳位の子どもでも、まるで成人した大人のように賢明かつ落着いた態度をとる(ヴェルナー)』



(コメント)
この「逝きし世の面影」の内容を読んでいると、自分は何とも言えないノスタルジックな気分にさせられる。少なくとも大東亜戦争に敗北し、日本人の大和魂を骨抜きにするGHQの占領政策を受けるまでは、古き良き日本人の美徳というものは確かに存在したように思う。日本人の美徳を持っていた戦前の世代が失われていくにつれ、日本の戦後社会の劣化が始まったと感じるのは自分だけではあるまい。

明治維新後は和魂洋才といって、日本人としての心を持ちながら、西洋の科学技術等を取り入れることが行われたが、それはある程度上手くいっていたように思う。しかし日本が敗戦してGHQに戦後レジームという猛毒を注入されて以来、日本人の多くの意識が緩やかに和魂洋才から洋魂洋才へと変化させられた。最近収監が確定したホリエモンなどが時代の寵児としてもてはやされたこともあったが、彼のこれまでの言動から“和魂”を見出すことは難しい。

今の日本人が持っている美徳は、過去の日本人が当たり前に持っていたものの残滓であり、幻影なのかもしれないと思うことがある。もちろん、昔の日本社会の道徳観を全肯定するわけではないが、現在の日本人よりまともな日本人、尊敬出来る日本人が多かったのは確かな事実だろう。そしてそれは世界的に見ても奇跡に近いレベルだったようである。

今後日本を再生させるためには、形を変えた教育勅語の復活を含め、和魂洋才の復活が欠かせないと思われる。大東亜戦争の敗北という国難による洗礼で日本が改悪されたように、日本を改善するにも“大東亜戦争敗北並みの国難”が必要なのであり、それが東日本大震災に始まる大災害の連続だと考えるのは軽率だろうか。どのみち、今の日本国政府、民主党政権下での日本の復活の可能性は全くのゼロであり、むしろ強烈な“洗礼”が用意されているように感じられる。

個人的な考えに基づくスピリチュアル的な話をすると、アセンションだの次元上昇だの騒いでる現代日本のおめでたい人達の大部分は、彼らが空想しているような魂の選別があった場合、ほとんど生き残れないのではないかと思われる。それは現代の日本人の魂の質が昔の日本人の魂の質に全体として及ばないと感じられるからであり、死者すら甦ると言われる最後の審判では、現代日本人のための席は極めて少ないと思われるからである。

和食の質素な食事や先祖供養などは昔の日本人は当たり前の習慣として行っており、さらにプラスαの意識を持って生活をしていた。神仏や国のために戦った先達を敬いもせず、マスコミの扇動に乗って日本をダメにするような政党に政権を取らせ、平気で国を売るような連中に媚びへつらい、ユダヤ朝鮮の罠に嵌って堕落した今の日本人は、人間の品格という面では、昔の日本人には比べるべくもない。残念ながらそれが真実。日月神示などでは、今の日本人の多くは最後の最後で「鼻高さんポキン」と繰り返し書かれているが、つまりはそういうことだろう。

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太陽の神人 黒住宗忠

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このブログで何回か書いたことがあるが、自分は思想的には神道で、葬式は真言宗の、いわゆる神仏習合的な日本人であり、特定の宗教団体に所属しているわけではない。今回紹介する黒住宗忠は、幕末明治期に起こった神道系の宗教である黒住教の開祖とも呼ばれる人物だが、当然、自分は黒住教にも所属しておらず、純粋に黒住宗忠という人物を賞賛し、当ブログの読者に参考にしていただきたいために今回の記事を書くものである。

黒住宗忠
太陽の神人とも呼ばれる、日本屈指の偉人 黒住宗忠

黒住宗忠は、江戸時代の安永9年11月26日の冬至の日に、備前国(岡山県)御野郡中野村の神社の禰宜(神職)の家に三男として生まれた。備前藩から表彰されるほどの親孝行であった。「黒住の孝行息子」と呼ばれるほどの評判だったが、文化9年(1812年)8月、実母が腹痛のため寝込んでしまい、次いで実父も同じような腹痛となり、相次いで世を去ってしまう。孝行息子だった宗忠は、極度の絶望状態に陥り、肺結核と思われる病となって寝込んでしまった。

文化11年(1814年)11月11日、最早最期と覚悟した宗忠は、せめて最後に朝日を拝もうと思い、冬至の朝の太陽を浴びるが、その時、天照太神と同魂同体となるという「天命直授」と言われる不思議な体験をし、その後、三日間、世の中が面白おかしくなって笑い続けたと伝えられている。この時病気も快癒したが、病気が治ったと思ったら頭がおかしくなったのかと家人が心配したらしい。

こんな面白おかしいおかげ(ご利益)を独り占めするのは大神様に申し訳ないと、様々な宗教的活動を始めた宗忠だったが、その不思議譚は宗忠の家の女中の猛烈な腹痛を 患部をさすって「ふっ」と息を吹くだけで治すという奇跡から始まる。腹痛を治してやった女中の口から噂が広まり、多くの病人が宗忠の元に集まってきたが、そのほとんどをさすって「ふっ」と吹くだけで治したと言われ、死んだと思われた人間が目を覚ました例もあったという。

宗忠の宗教的な活動は、人々の前で講話をすることが中心であったが、この講話の最中にも不思議なことが続出し、病人が治ってしまったというようなことが毎回のように起こったといわれている。後に高弟の一人となる赤木忠春は、眼病を患い失明していたが、家人に連れられて宗忠の講話を聴きにきて視力が回復し、その場で弟子入りしてしまっている。

宗忠の教えを簡単に歌った歌がある。

「有り難き また面白き 嬉しきとみき(三つのき)を備うぞ誠なりけれ」

本当の誠というのは、心の中に感謝の心と面白いという心と、嬉しいという心が絶えず湧いてくるような状態を指すということらしい。

宗忠の教えは朝日を拝む日拝が基本であり、恵みの母である太陽(天照大神)の御神徳を我が身にいただいて、「有り難き また面白き 嬉しき」の誠で過ごせるようにすることである。

朝日を拝む方法は、古くから開運長命の方法として知られ、江戸時代の観相家の水野南北なども言及している。また、太陽の光を浴びることにより、免疫力が強くなり、ホルモンバランスなども正常化することが知られている。地球上の生命の9割以上は太陽の恵みで生きており、太陽の光→植物→動物→人間という流れを見れば分かるように、人間の日々の食事は太陽の光が形を変えたもの、と言えなくもないわけで、朝日を感謝して拝むという行為は、道徳的、宗教的にも理にかなった行為と言えるのかもしれない。

氏神、産土神などに対してもそうだが、神仏に対して人間以下の対応、たとえばお願いごとをしておいて御利益があったとしても御礼も言わない、などという行為は、あまり感心しない。まして日々、悪人、善人にかかわらず、地球上の生命が生きていくための日光を絶えず恵んでくださる太陽を ヘリウムのガスの塊云々とみなして無視しても良いものかということである。

確かに科学的にはヘリウムのガスの塊云々なのかもしれないが、霊的には太陽の徳は計り知れないものがある。

「天照す神のみ徳を知る人は 日月とともに生き通しなり」
「天照す神のみ徳を知る時は 寝てもさめても有難きかな」

上の歌は、宗忠が遺したものだが、霊性の向上、魂の向上は太陽の徳を知ることから、と言っても過言ではないのかもしれない。日本の国旗である日の丸は朝日をモチーフにしたものであり、古来より日本人ほど太陽を拝んできた民族も珍しいに違いない。「お天道様が見ている」といって善行や勤労に励んできたのが伝統的な日本人の姿なのである。

現在のカルト宗教などを見てみると、太陽の威徳を理解出来るほどの教祖は誰一人としておらず、全員が自分と同じ凡人であると断言することが出来る。自分も含めてだが、大部分の人間が太陽の有り難みを感覚的に理解出来ていない霊的には程度の低い人間であるということである。学歴や社会的地位などが重要になる現在の日本社会だが、太陽の力の前では、人間などは地球の表面に住み着いた虫レベルの存在に過ぎない。物知りな虫や生活の豊かな虫、貧乏な虫、不運な虫など、様々な虫が地球上に存在しているが、太陽から見れば全て同じ虫にしか見えないだろう。

今でも日本人の間では、初日の出などを「ご来光」として拝む習慣があるが、あの有難いと思う気持ちを持ちながら、毎日の朝日を「ご来光」として拝めれば、宗忠の達した境地に少しは近付けるに違いない。

宗忠の教えは、当時の皇室や公家の中に帰依する者が多く、宗忠の死後、文久2年(1862年)2月25日に京都神楽岡に宗忠神社が創建された。宗忠神社は慶応元年(1865年)4月18日、孝明天皇の勅願所となっている。このこと一つをとってみても、黒住宗忠の奇跡や伝説が決していい加減なものではないことが理解出来るだろう。

現代の世界はいわば「お金が神」の社会だが、それを否定するつもりは全くない。事実、お金も神の働き、ありがたい恵みの一つであるからである。お金があれば楽が出来るし、良い家に住んで良い暮らしが出来る。うまいものも食えて異性にももてる。現代社会の魔法がお金であり、それは動かしがたい真実だからだ。だが、人間社会の繁栄は太陽の恵みあってのものであり、太陽の光がなくなれば、地上の生物が死滅し、お金の存在も全く意味がなくなる。

お金も有難いが、それ以上に有難いのが太陽であり、朝日を拝むことであなたの人生は、今までよりちょっとだけ豊かになるかもしれない。

民主党政権や皇室の問題、反日マスコミの支配など、書くべきことは多々あるのかもしれないが、仕事が忙しく更新が厳しい日が続いている。正直、日本の将来について、とても楽観的な気分にはなれないし、暗い世相ばかりが目に付くが、そんな中でも宗忠の教えは参考になることが多い。読者の皆さんの何かの役に立つかと思い、今回の記事を書いてみた次第。諸氏の今後の参考になれば幸いである。

宗忠神社
宗忠を今も祀る宗忠神社



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上杉鷹山に学ぶ政治家と官僚の心構え

上杉鷹山に学ぶ政治家と官僚の心構え


上杉鷹山は高鍋藩主秋月種美の次男として、高鍋藩江戸屋敷で生まれた。幼名は直松で、幼少時から頭が良くて評判の子供だった。しかし、江戸時代の体制下においては、どんなに優秀であっても、次男が長男を差し置いて家督を継ぐという事は有り得なかった。本来ならば部屋住みの次男坊として一生を終えてもおかしくはなかったが、9歳の時に転機が訪れる。米沢藩十五万石、上杉重定の養子に内定し、日向高鍋藩二万七千石から、一気に十五万石の大名家の家督を継ぐ事になったのだ。1766年、数え年16歳になった直松は、将軍徳川家治(いえはる)の前で元服し、将軍の一字を頂き治憲(はるのり)と名を改める。そして翌年、重定が隠退し、17歳となった治憲は上杉家の十代目の家督を継ぎ、第九代米澤藩主となった。だが、これは治憲にとっては、15万石の太守という肩書きとは裏腹に、苦難に満ちた人生の始まりでもあった。


当時の米沢藩は、120万石から30万石、さらに15万石に減封されたにも関わらず、120万石の時から家臣を一人もクビにしていなかったので、藩の財政が破綻し切っていたのである。見渡す限りの荒れ果てた土地、廃虚のような家々。人々の心は荒み、その荒廃ぶりに治憲は驚かざるを得なかったからだ。


江戸から初めて米沢に向かう途上、治憲はカゴの中で傍にあった煙草盆の炭に目をとめると、その消えかかる残り火を熱心に吹き始めた。そして火が起こったのを確かめる彼を怪訝そうに見つめていた家臣達に次の様に説明した。

「まさに消えかかろうとする炭火でも、辛抱強く吹き続ければ明るい火を起こす事ができる。同じ様に、この国と領民が生まれ変わらない事があろうか。今や大いなる希望が我が胸に甦った。私は、この炎を消さぬ」

灰の中から残り火が再び燃え立つ様子に米沢藩再興の希望を見出し、治憲は大改革を実施する決意を固めたと伝えられている。


治憲は米作以外の殖産興業を積極的に進め、寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅花などの栽培を奨励。漆の実から塗料をとって漆器を作り、楮からは紙を、紅花の紅は染料、桑で蚕を飼い、生糸を紡いで絹織物に仕上げた。貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思いをしており、そこで治憲は老人たちに、米沢の小さな川、池、沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めたのである。やがて美しい錦鯉は江戸で飛ぶように売れ始め、老人達も自ら稼ぎ手として生き甲斐を持つ事が出来る様になった。


また治憲は、万代にわたる繁栄の為には、教育が不可欠と考えていた。「教育がなければ人間は盲目になる。権威・権力の奴隷になって使われてしまう」

「興譲館(こうじょうかん)」と名付けた学校を建て、自分の恩師である細井平洲(ほそいへいしゅう)を講師として江戸から招き、身分に関わらず、多くの領民に教育の機会を与えたのである。


そして治憲は武士達にも、自宅の庭で作物を植え育てる事を命じたのである。百姓の真似事をさせるのかと武士達は怒り、重臣七名が打ち揃って、諫言の書状を呈示して治憲に迫ったり、病気と称し自邸に引き篭って政務は停滞状態となったりもした。そんな中、治憲は首謀者を厳しく取り締まる一方、自ら改革の模範を示した。年俸一五〇〇両を一気に二〇〇両まで減らし、日常の食事は一汁一菜、衣服は綿とし、五〇人いた女中を九人に減らし、そして刀を鍬に持ち替えて土地を耕し始めたのである。やがて治憲の改革に共鳴して、貧困に喘いでいた下級武士達の中から自ら荒れ地を開墾して新田開発に取り組む者も出始め、家臣の妻子も養蚕や機織りに携わり、改革は大きな成果を挙げるようになった。


こんな逸話も伝えられている。ある時、治憲が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃、米沢城外の松川に架かっている福田橋は傷みが酷くて修理が必要だったのにも関わらず藩からは修理費が出せず、そのままになっていたその橋を、急に突然、二~三十人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めたのである。橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩主は心を痛めるであろう。それなら、自分たちの無料奉仕で橋を直そう、と下級武士たちが立ち上がったのだ。「侍のくせに、人夫の真似までして」とせせら笑う声を無視して、武士たちは作業に打ち込んだ。やがて江戸から帰ってきた治憲は、修復した橋と、そこに集まっていた武士たちを見て、馬から降り「おまえたちの汗とあぶらが沁み込んでいる橋を、とうてい馬に乗っては渡れぬ」と言って橋を歩いて渡った。武士たちが感激したことは言うまでもない。そして治憲は武士達が「農民や町人の為に」という精神を実践し始めたのを何よりも喜んだのであった。


1785年、治憲は35才の若さで、前藩主重定の息子・治広に藩主の座を譲り、引退したが、その引退にあたり、君主の戒めとして「伝国之辞(でんこくのじ)」を治広に与えた。


一、国家は先祖より子孫へ伝え候 国家にして我私すべきものには是なく候。
(一、自らの利益の為に、国家を用いてはならない)

一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものには是なく候。
(一、自らの利益の為に、人民を用いてはならない)

一、国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民には是なく候。
(一、人民の為に君主があるのであり、君主の為に人民があるのではない)


これはアメリカ独立宣言の9年後、またフランス人権宣言の4年前の事である。これだけ素晴らしい理念をもった偉人が過去の日本には存在し、口先だけではなく、実際の行動によってそれを示していたのである。ジョン・F・ケネディが、尊敬できる日本人として名前を挙げた上杉鷹山を 日本人はもっと知らなければならないと思う。


その後の米沢藩だが、治憲が進めた藩政府の政策の真価は天明の大飢饉の際に発揮されることになった。天明2(1782)年、長雨が春から始まって、冷夏となり、翌3年も同じような天候が続いたのである。米作は平年の二割程度にまで落ち込み、全国に多大な餓死者・病死者が発生。その時、治憲が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早い対応であった。

『藩士・領民の区別なく、一日あたり、男・米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる』

『酒・酢・豆腐・菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止』

『比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ』

藩主以下、上杉家全員も領民と同様、三度の食事は粥とし、それを見習い、富裕な者たちも貧しい者を競って助けたと伝えられている。全国三〇〇藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の四藩だけであったと伝えられている。


近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては30万人の餓死者・病死者が出たと言われているが、米沢藩では餓死者においては一人も出ることはなかった。

それだけでなく、治憲は苦しい中でも他藩からの難民に藩民同様の保護を命じており、江戸にも飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは米沢藩出身の者は一人もいなかったと伝えられている。


米沢藩の業績は幕府にも認められ、「美政である」として三度も表彰を受けている。長年、米沢藩を苦しめた11万両の借金が全て返済され、更に5千両の黒字になったのは、「鷹山」と名を改めた治憲が72才で世を去って、1年が過ぎた文政6年の事であった。財政再建策の他にも、数々の福祉、敬老政策を実施した鷹山は、領民達からは慈父のように敬われてた。鷹山が他界した際には、領内、到る所に号泣、慟哭が満ち、山野は悲しみに包まれたと伝えられている。


関連リンク

http://hi-speed.hp.infoseek.co.jp/uesugi-1.htm

http://e-yone.jp/backnumber/yozan/index.htm


上杉鷹山は、自分も童門冬ニの小説を読み、とても感銘を受けた人物の一人である。本来ならば、日本の紙幣のモデルや、教科書に紹介されても良い程の人物だが、一時的にブームにはなったものの、その後忘れ去られている感がある。日本の政治家と公務員は全員、上杉鷹山の伝記を一度は読むべきだと思うし、鷹山の偉業は日本人にもっと知られるべきだと個人的には思っている。鷹山の政治思想は『民富』。つまり領内の農民を豊かにするという、封建時代においては当時の政治思想の流れに逆行する徳の政治であった。個人主義がはびこり、政治家と官僚が私利私欲に走る現在の日本は、既に鷹山の政治思想からはほど遠い状況である。アメリカの日本への要望を無条件に受け入れ、サラリーマンや派遣社員を締め付けて企業経営者だけが甘い汁をすする。また、反日の朝鮮人に無駄な税金を投入したり、日本の敵国である中国や韓国に援助を与え、その分、国民の税金を引き上げ、国民の生活を圧迫する。もはや、日本の政治は政治というよりは、特定アジアと米国によって操られる出来の悪い人形劇を見ているようだ。左翼が戦後進めてきた、自虐的な世論の形成と、指向性を持たない個人主義の成れの果てが現在の日本の姿であり、こういう時代だからこそ、上杉鷹山の精神が見直される必要があると思うのは自分だけだろうか?

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