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日本が好きなだけなんだよ

Category : 自虐史観からの脱却

田母神氏 外国特派員協会で講演 

田母神氏 「日本には『自衛隊増強→侵略』という間違った歴史観あるから、自衛隊を軍として使えない」…特派員協会で講演  産経新聞

先の大戦をめぐり政府見解と異なる論文を公表したとして更迭された田母神俊雄・前航空幕僚長は1日、都内の日本外国特派員協会で講演し「自衛隊が大きくなると日本は必ずまた侵略を開始して周辺諸国に迷惑をかけるという間違った歴史観が根底にあるため、日本は自衛隊をふつうに使う国になれない」と述べ、自虐的な歴史認識が日本の防衛政策の足かせとなっている現状を指摘した。

田母神氏は「過去の話は講和条約が締結した後はいうべきではないが、朝鮮半島、中国にはこちらから言わなくてもどんどん言われる。それに反論しておかなければ日本はだめになっていく」と強調。自らの更迭について「日本の国はいい国だったと言ったら日本政府は『何をバカなことをいっているんだ、日本の国はろくな国じゃなかったんだ、おまえはクビだ』ということになった」と述べた。


テレビ朝日 朝まで生テレビ(2008年11月29日放送)

テーマ 田母神問題と自衛隊

番組内で行われたアンケート調査の結果

◆Q1. 田母神氏発言に共感できる?(理由も)
    
YES 303件(61%) NO 164件(33%) その他 30件(6%)

 1. 論文内容は正しい          47件
 2. 田母神氏の意見は正しい     30件
 3. 日本は侵略国家ではない     22件
 4. 日本だけが悪いとはいえない   20件

朝生1

◆Q2. 自衛隊の存在を憲法に明記すべき?(理由も)

YES 356件(80%) NO 78件(18%) その他 19件(2%)

 1. 自衛の機能は重要         86件
 2. 軍隊として新たに明記すべき   53件
 3. 立場を明確にすべき        49件
 4. 自衛隊は現に存在しているから 29件
 5. 現行憲法は時代にそぐわない  23件 

朝生2

ゲストの左翼系論者(姜尚中、辻元清美ら)全員 沈黙後涙目&言い訳で終了

アンケート結果を見た在日朝鮮人の姜尚中は・・・

「朝生にどんな人があれしてるか、わっわからないし一概にこれが、ハァハァ、世論全般の、いっ意見かはわかろれないですぬね ハァハァ」


オロオロオロ


核攻撃「やられれば、やる」 田母神氏持論を改めて主張  JーCASTニュース

政府見解と反する内容の論文を発表したとして更迭された田母神俊雄・前航空幕僚長が2008年12月1日、東京・有楽町の外国特派員協会で記者会見を開いた。「1945年に司令官だったらどうするか」という問いには「(米国に原爆投下を)やられたら、やる」と述べたほか、「核武装は議論すべきだ」「自衛隊についての意見が割れる憲法は直すべきだ」などと、改めて持論を展開した。

「どこの国でも、歴史教育は『光』の部分に焦点を当てて教える」

田母神氏はあらためて持論を展開した 冒頭、田母神氏は

「前航空幕僚長の、危険人物の田母神です。5分も話してもらうと、私がどれだけ穏やかな人か分かる」

と切り出し、会場を沸かせた。さらに、

「顔が少しゆがんでいるが、決して心がゆがんでいるわけではない。これは国家機密だが、4年前に頭の耳後ろ側に2センチ大の腫瘍があるということで、7時間半ほどの手術をした。その結果として、顔が全部ゆがんだ」

と、04年に腫瘍の手術を受けていたことを明らかにした。

論文で発表して問題化した自らの歴史認識については、

「先方から言われる(批判される)のであれば、『本当はこうだ』と、意見として申し上げている」

「自衛隊が戦える体制をとることで、戦争を抑止することができる。ところが、『体制をとると戦争になる』と言われてしまう。これは自虐史観に基づいているのでは」

「きちんとお互いに本音をぶつけて話すことが重要。日本では『察し』の世界というか『今にわかる』というところがあるが、これでは外国人には通用しない。日本人は討論のストレスに耐えられない。だが、きちんと話し合いをすることが(事態改善への)近道」

などと持論を展開。さらに、

「イラクに派遣されて他国が攻撃を受けても、助けることができない」

などと、集団的自衛権の行使を認めるように改めて主張した。

一方、今回の「論文騒動」については、

「論文に書いたようなことは5~6年前からずっと言ってきたし、インターネットにも載っている。これだけの大騒ぎになるとは夢にも思わなかった。どこの国でも、歴史教育は『光』の部分に焦点を当てて教えるもの。ところが、『自分の国はいい国だ』と言ったら、政府から『何を馬鹿なことを言っているんだ』と、クビになった。こんな馬鹿なことがあっていいのか、と内心では思っている」

と、政府や、政府の任命責任を追及した野党への不満をぶちまけた。

「非核3原則」に否定的、改憲も主張
さらに、核問題や憲法改正についても言及。記者から

「1945年当時の司令官だったとして、米国に対して原子爆弾を使う能力があった場合、どうするか」

と聞かれると、

「それは、その状況になってみなければ分かりませんが、まぁ、『やられれば、やる』のではないかと思います」

と、核使用を肯定するともとれる発言をしたほか、日本が核攻撃を受けた際の対応については

「ほんのちょっとしか準備できてませんね」

とした上で、日本の核武装について

「私は議論されていいと思う。議論するだけで、核抑止力は高まると思う」

「核を、はじめから『持ちません』と言ってしまえば、核抑止力は低下する。持つ意思を示しただけで、核抑止力は向上する」

とも述べ、いわゆる「非核3原則」に否定的な見解を示した。

憲法9条についても、

「憲法9条では、自衛隊を持つか持たないかで国民の意見が割れている。国を守ることについて意見が割れるような憲法は直したほうがいい」

と、改憲を主張。

田母神氏は、自説が世論から大きな支持を受けているととらえているようで、

「官僚や政治家のなかに支持者はいるのか」

という質問に対しては、

「表向きには支持していないし、できないと思うが、実際には支持している人の方が多いのではないか。テレビ朝日の『朝まで生テレビ』(の調査)でも、私が61%も支持されていたのにはびっくりした。国民の皆さんは、自分のことを軍国主義者と受け止めるのではなく、冷静に判断しているのでは」

と自信をみせ、今後の活動予定についても

「講演やエッセイの要請が沢山あって、対応するのに手一杯。(将来について考える)暇がない」

と明かした。


(コメント)
田母神氏に対して共感するか否かのアンケートは、公正な調査を行えばマスコミの情報管制下であっても、恐らく60パーセント以上は共感するという回答が得られるのではないかと思われる。朝まで生テレビというテレビ朝日の番組でさえ、田母神支持は60パーセントを上回っているのだから、サイレントマジョリティとしての田母神支持の国民の数はかなり多いに違いない。ヤフーのアンケートでも60パーセント近い支持率だったのは記憶に新しい。

田母神氏の外国特派記者クラブでの講演は、世界標準ではしごくまっとうな受け答えであり、マスコミや日教組の教育で洗脳されている日本人には、やや過激に聞こえるかもしれない。核武装という言葉を政治家が口にすると、すぐさまマスコミの言論弾圧が始まるが、日本が核武装をして得られる政治的なメリットは計り知れない。日本が核武装をするにあたっては条件も幾つか付くが、核ミサイルを搭載した原子力潜水艦を保有し、その核戦力を抑止力とすれば、運用上はほとんど問題がない思う。

日本は世界で唯一の被爆国なのだから核を持ってはいけないという反日勢力の主張は、単なる詭弁であり、ナイフで刺されたのにナイフで身を守ってはいけないという主張と全く同じ論理である。ナイフで刺された被害者は、もう一度刺されるまで指を咥えておとなしく傍観していなくてはいけないらしい。これでは命が幾つあっても足りるものではない。戦後60年以上も経過したので、広島、長崎の仇としてアメリカに核を打ち込むという考えは現実的ではないし、実際には不可能だが、やられたらやり返すというのは防衛戦略上の基本であり、最低限の鉄則だと思う。田母神氏の「やられれば、やる」という発言は当たり前以前の常識の範疇に属するものだろう。

日本国憲法はもともと日本の主権が回復していない状態いもかかわらず、占領軍の主導で制定された憲法で、こういったGHQの行為は国際法にも違反している。また、主権の異常下での改正ということで大日本帝国憲法にも違反しており、本当は日本人が守らなければならない法的な根拠自体が乏しいのだが、講和条件の一部として日本国憲法をやむを得ず呑んだという見方も出来るので、アメリカや連合国が健在なうちは破棄も難しい。現在のところは改憲を目指すしかないようである。

田母神氏を国政選挙に擁立すれば、当選はもちろん、その話題性からも擁立政党の躍進が期待出来るのだが、更迭した自民党や証人喚問を要求した民主党、非難轟々のその他の野党では茶番劇にしか見えないので、既存の与野党での擁立は難しいだろう。万が一あるとすれば新風や改革クラブといったところか。田母神氏自身も、今は執筆依頼や講演の依頼で忙しいようなので、そちらの方面での活躍を期待したい。一部のマスコミの記者は、田母神氏やアパグループのアラ探しに躍起になっているようだが、日本国民を騙すことばかり考えてないで、いい加減に国民の声に謙虚に耳を傾けないと朝日新聞の赤字転落どころでは済まなくなりますよ、と、この機会にご忠告したい。
あいつもこいつもネトウヨ認定ニダ

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残虐行為のでっち上げは日本の歴史検証を阻むための反日勢力の策略

現代史の見直しは望み薄か  脱・洗脳史講座

昭和前期を中心とするかつての日本は、中国をはじめとするアジア諸外国を 「侵略」 しつづけ、ここかしこで膨大な数の住民を殺害するなど組織的かつ悪質な「残虐行為」 をはたらきつづけた歴史であり、 「あの時代の日本は恥ずべきもの、触れたくないもの」 とする捉え方が、漠然としたものにせよ、ごく普通の日本人が持つ歴史イメージ( ≒ 歴史観 )だろうと思います。 この歴史観、歴史イメージは、深いところで私たち日本人の 「贖罪意識」 とつながっているため、今日なお、国家はもちろん、われわれの言動を何かにつけ拘束することになっています。

・ 「残虐行為」が歴史観を規定

このような歴史観、歴史イメージをわれわれが持つようになった決定的理由は、他国に対する侵略問題にあるのではなく、日本軍および民間人が行ったとされる残虐行為の一点にある と思っています。

「侵略」問題の方は、当時の日本の周辺国を見渡せば、インド、ビルマ、インドネシア、ベトナム、フィリピンなどなど、ことごとく白人列強国の植民地 であり、独立国といえるのは日本、タイ の2国くらい。しかも、手をこまねいていれば、他のアジア諸国と同様、植民地にされるのは火を見るより明らかでした。ですから、日本という国家の 「生存をかけた戦い」 であったという主張は、そう理解されにくくないはずで、現に理解を示す欧米の歴史学者も少なくないと読んだ記憶があります。

ところが、これを帳消しにしたうえ、日本のイメージを最悪の状況に引き込んだのが「残虐行為」の存在です。ですから、この残虐行為の問題をクリアーできなければ、われわれ日本人はもちろん、欧米人の歴史観、歴史イメージは変えられないし、また変えようがない というのが私の基本的な見方で、このホームページを含め、機会あるごとに書いてきました。

このことはナチス・ドイツが周辺諸国を侵略したことで非難されるより、アウシュビッツ収容所 に象徴されるユダヤ民族抹殺という想像を絶する非人道的行為に、今なお、多くの非難が集中していることを考えればこと足りると思います。

つまり、残虐行為は戦時下であっても許されない、いわば 「絶対悪」 と大多数の人が考えるために、この問題は永続性を持ち、今日も国家間における 政治的武器 として利用されるのでしょう。日中間、日韓間などで、相反する利害が表面化するたびに、両国からここを突かれては謝罪を繰り返し、日本の国益が揺らぐというしだいです。

・ 日本糾弾の“包囲網”が
戦後60年余りも経た昨年(2007年)6~7月、アメリカ下院外交委員会 および 同下院本会議 で採択された「慰安婦」 に関する「対日非難決議案」は、このことをはっきりと証明しているはずです。同決議案によれば、「慰安婦制度は日本政府による軍用の強制的な売春で、20世紀最大の人身売買の一つ」と断じ、日本政府に 「公式謝罪」 を求めてきました。その事実がなかったにもかかわらずにです。
 
さらには、カナダ下院本会議でも、「公式かつ誠意ある謝罪」を求めた決議案が、またオランダ下院の本会議でも、元慰安婦に対する「謝罪と補償」を求めた決議案が採択され、この動きはEU諸国に広がりそうな気配です。この慰安婦問題の大元をたどれば、ひとえに 「朝日新聞」の捏造ともいうべき記事にあり、さらに誤りを認めないどころか、依然と強弁をつづけているところに行き着きます。

ですが一体、「朝日」読者の何人がこういった事実を知り、かくまで貶(おとし)められた国家と傷ついたわれわれ国民の名誉をどう考えているのか、ぜひ知りたいところです。もちろん、裏づけ調査をろくにしないまま、「慰安婦強制連行」を認めてしまった日本政府(「河野談話」)の責任も追及されなければなりません。事実関係がハッキリしているにもかかわらず、日本政府は「静観の構え」とやらで、アメリカに抗議一つしようとはしませんでした。国家が日本の名誉を守らずに、一体、誰が守るというのでしょう。慰安婦問題にかぎらず、これら一連の歴史問題は、情報戦、宣伝戦という国益に直結した戦いであり、しかも仕かけられた戦い なのだという認識が、政府も国民も希薄なのでしょう。

・ 増強、増設される「抗日戦争記念館」
また、中国に目を転じれば、北京市郊外の「中国人民抗日戦争紀念館」はすでに増強されて北京オリンピックを待ち、「南京事件」70周年にあたる2007年12月、敷地面積を3倍にして再オープンした「南京大虐殺紀念館」は、オリンピックはもちろん、おそらく2010年の上海万博 をも視野に入れたものでしょう。

200ヵ所以上もあるといわれるこのような「抗日戦争記念館」 の中身が、ことごとく日本軍の残虐ぶりを強調したものであり、残虐行為の強調こそが、中国人民の「愛国教育」という名の「反日教育」に、また中国を訪れた外国人の「反日感情」の醸成に、効果のある宣伝方法と中国が認識しているからにほかなりません。

もちろん、外国人の中には日本人も含まれ、修学旅行で訪れる高校生らは大きなショックをうけ、「日本人であることが恥ずかしい」 との感想を持つに至ります。このショックは一生涯つづくはずですから、抜群の効果に違いありません。中国は「南京大虐殺記念館」を「世界遺産」 に登録されるよう働きかけるなど、日本軍が史上類を見ない残虐な軍隊であったこと、いかに中国人民が惨禍をこうむってきたかを、とくに米・欧諸国など英語圏に狙いを定めた宣伝 に一層、力を注ぐはずです。

現に、上記アメリア下院における「対日非難決議案」の採択は突如として起こったことではなく、在米の中国系反日団体 による米議員への資金援助など、息の長い活動があってのことです。また、アメリカで南京関連の映画多数(約10本)が作られるのも同じ流れですし、今後、「バターン死の行進」「731部隊」 などを材料に、反日活動の活発化は予想できることです。

そしてこれら反日団体に中国政府のバックアップがあることは、いまや公然の秘密といってよいでしょう。また、主だった国から歴史、社会科教師を招待し、抗日記念館を見学させるなどして宣伝につとめ、日本が依然として、「反省も謝罪も補償もろくにしない非道徳国家」であることを強調し、その認識を広めることによって、日本にダメージを与えるなどは、少し考えれば誰にでも思いつきそうなことです。

すでに、カナダにその例が見られますし、相当な効果を発揮していると思われます。日本を押さえ込むのに、こんな安上がりの手段はないでしょう。コスト・パフォーマンスが抜群に高いはずです。これらは過去の話ではなく、現在も進行中のこと。しかも、国家の明白な意図があってのことですから、日本にとって終りの見えない由々しき問題になっているのです。このような状況下にあってもなお、窮地を脱出するこれといった戦略もなく、ただ「友好第一」を唱えるだけで、裁判官の前に引き出された「罪人」よろしく、その場しのぎの卑屈な日本でよいのでしょうか。

・ よってたかって自国を悪者に

40年ほど前からのことです。日本のメディアは「現地ルポ」と称して中国などに出かけ、日本軍・民の残虐行為、残虐事件を聞き出しては、これでもかこれでもかと報じ、日本の過去を難詰しました。先頭に立って煽ったのは間違いなく 朝日新聞です。もちろん毎日新聞なども同様、ブロック紙、地方紙の多くも追随しました。さらに、NHK 以下のテレビが加わります。そして、これらが報じる残虐事件、残虐行為を事実と決めつけた大学教授や文化人ら によって、過去の断罪に一層の磨きがかかったのです。それがまた中国、韓国などに跳ね返えって既定の事実と化し、さらに日本非難の声が大きくなる悪循環を引き起こします。「南京虐殺」「従軍慰安婦」はこの代表例といってよいでしょう。
 
昨年、歴史教科書記述を発端にした「沖縄集団自決命令」 の存否騒動は、今日もなお、日本のメディアは 「日本軍叩き」 に血道をあげていることを示しました。参加者実数が「2万人以下」 だった「沖縄県民集会」を、主催者発表の11万人をそのままに、「沖縄11万人が訴える」と大見出しをとり、「集団自決 軍が関与」との主催者の主張を大きく掲げるなど、煽りに煽った朝日新聞。住民自決を強制したとする「軍命令」が、実は戦後になって、遺族が厚生省の一時金や年金を確実に受給できるようにするため、守備隊長が軍命令という形をとることを了承した という明白になった、しかも肝心のいきさつに触れることなく、さもさも「軍命令があった」かのように印象操作したNHK報道(「クローズアップ現代」、07年8月放送)。

このように、日本軍となるととにかく叩く悪習が40年以上もつづき、いまや日本軍叩きは“正義” になったのです。これで、われわれの歴史観、歴史イメージが歪まなかったとしたら、むしろおかしいでしょう。日本の歴史教科書も、大阪市ほか各地に建設された「平和祈念館」 だって視点は同じです。「平和教育」 の名のもと、過去の日本を否定する「日教組」は、これら一連の報道に飛びつきました。残虐行為ほど生徒に分かりやすいものはなく、効果を期待できると踏んだからでしょう。このような動きに教科書出版会社が反応しないわけがありません。残虐事件、残虐行為を競うように取りあげ、教科書売り込みのセールスポイント にしたのです。ですから、日本の歴史教科書 と教師用の「虎の巻」(「指導書」)は残虐事件記述で溢れかえりました。そして、これらの教科書のもと、あるいは「平和祈念館」を通じ、日本の過去断罪という刷り込みが日常的に行われているのです。

・ 日本軍・民の残虐行為は本当か

では、日本軍民を告発・断罪する残虐行為、残虐事件はしかるべき調査をし、細部に多少の違いがあるにしても、大筋では間違いのない事実と確認されたものなのでしょうか。信じられないかも知れませんが、まったく違うのです。なすべき裏づけ調査をなさず、検証と呼べるような検証もないまま、中国など相手のいうことをマル呑みにして報道、その結果、事実とされてしまったものが大部分なのです。

にもかかわらず、日本軍の行った悪逆非道な行為は、ナチス・ドイツのあの人道に背いた冷酷な行為と同等とされてしまいました。いや、日本軍の行為はナチスの悪行を上回るとする日本人学者がいるくらいなのです。このような事態を招いた責任は、第1に 朝日新聞を筆頭とするマスメディア、次いでこれに追随した 歴史学者、文化人などの“有識者” と名指して間違いないはずです。

・ なぜ見直しは望み薄なのか

それならば、このような愚かな歴史観から一日も早く脱出しなければなりませんが、脱出は可能なのでしょうか。残念ながら、難しいように私には思えるのです。脱出するにはまず、われわれの持つ歴史観、歴史イメージがメディアなどに刷り込まれた怪しげな"洗脳史観" であることを、多くの国民に気づいてもらうことが必要不可欠でしょう。そのためには、メディアがまき散らした日本軍の残虐行為という「ウイルス」に対して、効果のある「ワクチン」 が用意されなければなりません。

ここでいうワクチンとは、ウイルスの多くが、虚偽または誇大 なものであることを実証的に明らかにしたものと定義しておきます。このようなワクチンを数多く開発し、多くの人に知らせることによって、われわれの持つ歴史観(歴史イメージ)が思い込まされたものであったかに、気づいてもらうことだろうと思うのです。でも、効果のあがるワクチンの開発は簡単ではありませんし、かりにワクチンができたとしても、このような歴史観を広めてきた当事者、つまりウイルスの散布者 であるほとんどの日本の報道機関が、ワクチンの存在を報じるわけもありません。ですから、ワクチンの存在自体を日本人が知る機会が少ない ことになります。

さらに、大きなカベが存在します。というのは、このようにしてできた歴史観を大した抵抗もなく日本人が受け入れたのも、国民性 と深くかかわってのことと思いますし、脱却を困難にしているのも国民性ゆえだと思うからです。この国民性を一つ挙げれば、偽善に陥りやすい体質 だろうと思います。別の言葉でいえば、「良識ぶる」「善人ぶる」 のだと思います。それも無意識というか習慣化したものだけに厄介な問題です。

中国で、朝鮮で、また南方でかくかくの残虐行為を働いたと日本(軍)叩きに狂奔する「朝日」をはじめとする日本のメディアを、日本人がさぞ嫌悪するかと思いきや、そうでもないようなのです。「告発される前に、自らの手で告発した良心的な報道、良識あるメディア」 とばかり、逆に評価があがるといった按配なのです。今日の「あの時代の日本は何もかもが悪かった」 とする見方は、メディアや学者、文化人だけの責任ではなく、メディアのとる音頭そのままに、同調した国民 の責任も大きいはずです。
国民も同調した末の話なのですから、たとえ思い込まされたものにせよ、こうまで浸透した歴史観、歴史イメージを変えることは、期待薄と思わざるを得ないのです。
 
・ 脱出のための神頼み

では、脱出することは半永久的に出来ないかというと、そうではないと思います。脱出は可能です。ただ、自力でできないだけであって、風向きしだいでは、大して意識しないうちに事が成る可能性はあると思います。われながら面白くもない結論だと思うのですが、脱出可能なシナリオは一つ と思っています。別に学問的なウラづけがあるわけではありません。ただ多少、人間を長くやってきましたので、少しは世の中を見てきました。私も日本人ですから、平均的な日本人がどう考えるかはおおよその見当がつきます。まあ、皮膚感覚からきた直感とでもしておきます。
 
われわれ日本人は不利益が目に見える形で自らに降りかかる、あるいは降りかかりそうにならないかぎり、良心的に見える側に同調する傾向が強いと思います。その方が多数の側で安心できますし、なにやら、自分が高尚な人間になったような自己満足に浸れるから だと思います。ですが、ひとたび具体的な不利益がみずからに降りかかるとなれば、“高尚かつ良心的な考え” など、一瞬のうちに吹き飛んでしまいます。これは歴史問題に限った話ではなく、もろもろの問題に共通すると思っています。
 
というようなわけで、私の考える脱出シナリオはいたって簡単です。日本人の多数にとって、具体的な不利益が自身に降りかかってくる状況になれば、反応は一変し、われわれの歴史観は刷り込まれた不当なものだという話に耳を傾けやすくなるでしょう。そのときが、脱出の機会だと思います。端的に言えば、ショック療法になるような出来事、あるいはそのような状態にまで追いつめられること、それらが覚醒の発端になるのだと、残念ながらそう思います。あの方法もダメ、この方法もムリと堂々巡りの結果、行き着いた脱出の可能性がこれとなれば、索漠たる思いから逃れようもありません。


(コメント)
インターネット上で『従軍慰安婦 捏造』や『南京大虐殺 捏造』をキーワードに検索すると、いくらでも捏造を証明するソースが調べられる世の中になったが、未だに外国で60年以上前の日本軍の残虐行為と称する事柄を非難する決議やプロパガンダが盛んなのは、世界中の中華系、朝鮮半島系の移民が中国政府や韓国政府の後押しを受けて、様々な工作活動を行っているからである

反日勢力の本拠地である特定アジア(韓国、中国、北朝鮮)と旧植民地だった宗主国の国々の利害は、歴史認識においては完全に一致している。それは自国の歴史の正当性を保つためには、日本は永遠に悪役でなくてはならず、日本や世界に正しい歴史を認識させてはならないからだ。特定アジアの国々は戦後に建国されたまだ新しい国々であり、建国の祖は全て抗日戦線の英雄ということになっている。欧米諸国は非人道的な植民地支配を行った張本人で、現在、白人との混血児が世界のいたるところ存在し、元々の原住民が滅亡したり、少数民族に成り下がっている国も珍しくないが、それらすべてが白人の悪行の成果である。しかし、そんなことはなるべく歴史の闇に葬りたいし、植民地を解放された恨みもあって、日本を非難することによって憂さを晴らしたいのだろう。

日本人を永遠の罪人に仕立て上げる最も効果的な方法が、侵略の歴史云々を議論するよりも残虐行為をでっち上げ、理性より感情に訴え、思考を停止させ、無条件に信じ込ませることである。証言に整合性のない自称従軍慰安婦の老女が世界を飛び回り、捏造された証拠写真が使い回され、共産党の粛清で発生したと思われる白骨を日本軍の仕業に見せ掛けて南京大虐殺記念館に展示しているのもそのためだ。用意する方は大して手間が掛からず費用も安いものだが、効果は絶大であり、反証する側は大変な労力と手間を要する。

残虐さをでっち上げ、思考を停止させる手法は日本軍以外にも使われている可能性がある。例えばナチスドイツは500万人以上ガス室でユダヤ人を虐殺したというが、では500万人分の遺体はどう処理したのだろう。埋めたのでなければ焼却するしかないが、人間一人を完全に灰にするには技術の進んだ現在でも高温で3時間以上燃やさなければ無理だ。石油等の戦略物資を外国から輸入していたナチスドイツがそんな膨大な燃料の無駄遣いを行うだろうか?疑問は依然として残る。

9.11の米国の同時多発テロにしても犠牲者の数は確かに実数だが、ビルの中腹に飛行機が突っ込んだぐらいで建物全体があんなに綺麗に崩落するものだろうか?ビルの上部が傾いて崩れるのはまだ理解出来るが、なぜ下部まで崩落するのか非常に疑問だ。プロによる発破でなければあんなに綺麗には崩れないと思うのは考え過ぎだろうか。あの崩落を精密模型で再現することは不可能なのではないか?そう考えるのはきっと陰謀論の読みすぎなのだろう。結局、犠牲者の数や惨劇映像だけが強調され、理性的な議論はほとんどされることなく、アメリカ政府はまんまと国民世論を動かし、アフガニスタンやイラクに兵を進めている。

話が逸れてしまったが、要は日本人に自虐史観を押し付けている国内外の勢力はプロパガンダを熟知したプロであり、繰り返し執拗に情報戦争を仕掛けてきているわけである。村山談話や河野談話はやってもいない犯罪を自白しているも同然の行為であり、日本を叩き続けたい勢力にとってはまたとない材料である。日本を擁護したい国々があったとしても、これではなかなか助け舟も出しづらい。世論や政治家をコントロールしてこれらの談話を出させた朝日新聞を始めとする反日マスコミは、政府見解に化けた村山談話や河野談話という名の言論弾圧の大義名分を手に入れたわけであり、相撲で言えば大金星を挙げたも同然だろう。

覆水盆に返らずの例えもあるので過去の失敗を嘆いていても仕方がないのだが、保守陣営は村山談話や河野談話をいかに破棄させるのかが今後の問題となる。自分の考える一つの方法としては、スパイ防止法を制定した上で村山富市や河野洋平を存命のうちにスパイとして検挙し、それをきっかけに村山談話と河野談話を白紙に戻すのが、政府の立場としてはやりやすいような気がする。国籍法改悪も阻止出来ないような状況ではスパイ防止法の制定など夢のまた夢だが、インターネットを始め、草の根運動でマスコミや売国政治家の反日ぶり、売国ぶりを伝えていくしか、今のところ有効な手段がない。座して死を待つぐらいなら国内外の反日勢力をとことん苦しめてから日本は滅ぶべきではないだろうか?

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田 母 神 俊 雄 氏の論文 『日 本 は 侵 略 国 家 で あ っ た の か』 

田母神さんの勇気ある行動を無駄にしてはいけない

日本の歴史的真実を解説した論文が、民間企業の主催する懸賞論文で最優秀賞を受賞したからといって、航空幕僚長が更迭され、マスコミが論文の具体的検証も行わず、反対意見の学者のみブラウン管に登場させて、一方的な決め付け批判を行っている。マスコミに登場して批判している学者達は「幼稚だ」「小学生レベルだ」などという具体性を欠いた批判ばかりで、その姿はまるでのマスコミお気に入りのお抱え茶坊主にしか見えない。どんなに学歴が立派でも、反日左翼や売国奴の知識人は、その能力や経歴をマイナス方向にしか発揮しないので、道徳的、政治的には日本社会に有害な人材である。

田母神氏の更迭は本当に残念な結果だが、職を賭して発表した氏の論文を決して無駄にしてはいけないと思う。幸いPDFファイルからテキストにうまく変換出来たので、当ブログにも掲載したいと思うが、簡潔かつ的確で、史実に基づいた素晴らしい論文であり、日本が連合国側に押し付けられている捏造された自虐史観と異なるからといって、論文を非難するのは的外れもいいところだろう。


転載元
アパグループ第一回「真の近現代史観」懸賞論文募集
http://www.apa.co.jp/book_report/


日本 は 侵 略 国 家 で あ っ た の か

田 母 神 俊 雄

ア メ リ カ 合 衆 国 軍 隊 は 日 米 安 全 保 障 条 約 に よ り 日 本 国 内 に 駐 留 し て い る 。 こ れ を ア メ リ カ に よ る 日 本 侵 略 と は 言 わ な い 。 二 国 間 で 合 意 さ れ た 条 約 に 基 づ い て い る か ら で あ る 。 我 が 国 は 戦 前 中 国 大 陸 や 朝 鮮 半 島 を 侵 略 し た と 言 わ れ る が 、 実 は 日 本 軍 の こ れ ら の 国 に 対 す る 駐 留 も 条 約 に 基 づ い た も の で あ る こ と は 意 外 に 知 ら れ て い な い 。日 本 は 1 9 世 紀 の 後 半 以 降 、 朝 鮮 半 島 や 中 国 大 陸 に 軍 を 進 め る こ と に な る が 相 手 国 の 了 承 を 得 な い で 一 方 的 に 軍 を 進 め た こ と は な い 。 現 在 の 中 国 政 府 か ら 「 日 本 の 侵 略 」 を 執 拗 に 追 求 さ れ る が 、 我 が 国 は 日 清 戦 争 、 日 露 戦 争 な ど に よ っ て 国 際 法 上 合 法 的 に 中 国 大 陸 に 権 益 を 得 て 、 こ れ を 守 る た め に 条 約 等 に 基 づ い て 軍 を 配 置 し た の で あ る 。 こ れ に 対 し 、 圧 力 を か け て 条 約 を 無 理 矢 理 締 結 さ せ た の だ か ら 条 約 そ の も の が 無 効 だ と い う 人 も い る が 、 昔 も 今 も 多 少 の 圧 力 を 伴 わ な い 条 約 な ど 存 在 し た こ と が な い 。

こ の 日 本 軍 に 対 し 蒋 介 石 国 民 党 は 頻 繁 に テ ロ 行 為 を 繰 り 返 す 。 邦 人 に 対 す る 大 規 模 な 暴 行 、 惨 殺 事 件 も 繰 り 返 し 発 生 す る 。 こ れ は 現 在 日 本 に 存 在 す る 米 軍 の 横 田 基 地 や 横 須 賀 基 地 な ど に 自 衛 隊 が 攻 撃 を 仕 掛 け 、 米 国 軍 人 及 び そ の 家 族 な ど を 暴 行 、 惨 殺 す る よ う も の で あ り 、 と て も 許 容 で き る も の で は な い 。 こ れ に 対 し 日 本 政 府 は 辛 抱 強 く 和 平 を 追 求 す る が 、 そ の 都 度 蒋 介 石 に 裏 切 ら れ る の で あ る 。 実 は 蒋 介 石 は コ ミ ン テ ル ン に 動 か さ れ て い た 。1 9 3 6 年 の 第 2 次 国 共 合 作 に よ り コ ミ ン テ ル ン の 手 先 で あ る 毛 沢 東 共 産 党 の ゲ リ ラ が 国 民 党 内 に 多 数 入 り 込 ん で い た 。 コ ミ ン テ ル ン の 目 的 は 日 本 軍 と 国 民 党 を 戦 わ せ 、 両 者 を 疲 弊 さ せ 、 最 終 的 に 毛 沢 東 共 産 党 に 中 国 大 陸 を 支 配 さ せ る こ と で あ っ た 。 我 が 国 は 国 民 党 の 度 重 な る 挑 発 に 遂 に 我 慢 し き れ な く な っ て 1 9 3 7 年8 月 1 5 日 、日 本 の 近 衛 文 麿 内 閣 は「 支 那 軍 の 暴 戻 を 膺 懲 し 以 っ て 南 京 政 府 の 反 省 を 促 す 為 、 今 や 断 乎 た る 措 置 を と る 」 と 言 う 声 明 を 発 表 し た 。 我 が 国 は 蒋 介 石 に よ り 日 中 戦 争 に 引 き ず り 込 ま れ た 被 害 者 な の で あ る 。

1 9 2 8 年 の 張 作 霖 列 車 爆 破 事 件 も 関 東 軍 の 仕 業 で あ る と 長 い 間 言 わ れ て き た が 、 近 年 で は ソ 連 情 報 機 関 の 資 料 が 発 掘 さ れ 、 少 な く と も 日 本 軍 が や っ た と は 断 定 で き な く な っ た 。「 マ オ( 誰 も 知 ら な か っ た 毛 沢 東 )( ユ ン・チ ア ン 、講 談 社 )」、「 黄 文 雄 の 大 東 亜 戦 争 肯 定 論( 黄 文 雄 、 ワ ッ ク 出 版 )」 及 び 「 日 本 よ 、「 歴 史 力 」 を 磨 け ( 櫻 井 よ し こ 編 、 文 藝 春 秋 )」な ど に よ る と 、最 近 で は コ ミ ン テ ル ン の 仕 業 と い う 説 が 極 め て 有 力 に な っ て き て い る 。 日 中 戦 争 の 開 始 直 前 の 1 9 3 7 年 7 月 7 日 の 廬 溝 橋 事 件 に つ い て も 、 こ れ ま で 日 本 の 中 国 侵 略 の 証 み た い に 言 わ れ て き た 。 し か し 今 で は 、 東 京 裁 判 の 最 中 に 中 国 共 産 党 の 劉 少 奇 が 西 側 の 記 者 と の 記 者 会 見 で 「 廬 溝 橋 の 仕 掛 け 人 は 中 国 共 産 党 で 、 現 地 指 揮 官 は こ の 俺 だ っ た 」 と 証 言 し て い た こ と が わ か っ て い る 「 大 東 亜 解 放 戦 争 ( 岩 間 弘 、 岩 間 書 店 )」。 も し 日 本 が 侵 略 国 家 で あ っ た と い う の な ら ば 、 当 時 の 列 強 と い わ れ る 国 で 侵 略 国 家 で な か っ た 国 は ど こ か と 問 い た い 。 よ そ の 国 が や っ た か ら 日 本 も や っ て い い と い う こ と に は な ら な い が 、 日 本 だ け が 侵 略 国 家 だ と い わ れ る 筋 合 い も な い 。

我 が 国 は 満 州 も 朝 鮮 半 島 も 台 湾 も 日 本 本 土 と 同 じ よ う に 開 発 し よ う と し た 。 当 時 列 強 と い わ れ る 国 の 中 で 植 民 地 の 内 地 化 を 図 ろ う と し た 国 は 日 本 の み で あ る 。 我 が 国 は 他 国 と の 比 較 で 言 え ば 極 め て 穏 健 な 植 民 地 統 治 を し た の で あ る 。 満 州 帝 國 は 、 成 立 当 初 の 1 9 3 2 年 1 月 に は 3 千 万 人 の 人 口 で あ っ た が 、 毎 年 1 0 0 万 人 以 上 も 人 口 が 増 え 続 け 、 1 9 4 5 年 の 終 戦 時 に は 5 千 万 人 に 増 加 し て い た の で あ る 。満 州 の 人 口 は 何 故 爆 発 的 に 増 え た の か 。 そ れ は 満 州 が 豊 か で 治 安 が 良 か っ た か ら で あ る 。 侵 略 と い わ れ る よ う な 行 為 が 行 わ れ る と こ ろ に 人 が 集 ま る わ けが な い 。農 業 以 外 に ほ と ん ど 産 業 が な か っ た 満 州 の 荒 野 は 、わ ず か 1 5 年 の 間 に 日 本 政 府 に よ っ て 活 力 あ る 工 業 国 家 に 生 ま れ 変 わ っ た 。 朝 鮮 半 島 も 日 本 統 治 下 の 3 5 年 間 で 1 千 3 百 万 人 の 人 口 が 2 千 5 百 万 人 と 約 2 倍 に 増 え て い る 「 朝 鮮 総 督 府 統 計 年 鑑 」。 日 本 統 治 下 の 朝 鮮 も 豊 か で 治 安 が 良 か っ た 証 拠 で あ る 。 戦 後 の 日 本 に お い て は 、 満 州 や 朝 鮮 半 島 の 平 和 な 暮 ら し が 、 日 本 軍 に よ っ て 破 壊 さ れ た か の よ う に 言 わ れ て い る 。し か し 実 際 に は 日 本 政 府 と 日 本 軍 の 努 力 に よ っ て 、現 地 の 人 々 は そ れ ま で の 圧 政 か ら 解 放 さ れ 、 ま た 生 活 水 準 も 格 段 に 向 上 し た の で あ る 。

我 が 国 は 満 州 や 朝 鮮 半 島 や 台 湾 に 学 校 を 多 く 造 り 現 地 人 の 教 育 に 力 を 入 れ た 。 道 路 、 発 電 所 、 水 道 な ど 生 活 の イ ン フ ラ も 数 多 く 残 し て い る 。ま た 1 9 2 4 年 に は 朝 鮮 に 京 城 帝 国 大 学 、1 9 2 8 年 に は 台 湾 に 台 北 帝 国 大 学 を 設 立 し た 。 日 本 政 府 は 明 治 維 新 以 降 9 つ の 帝 国 大 学 を 設 立 し た が 、 京 城 帝 国 大 学 は 6 番 目 、 台 北 帝 国 大 学 は 7 番 目 に 造 ら れ た 。 そ の 後 8 番 目 が 1 9 3 1 年 の 大 阪 帝 国 大 学 、9 番 目 が 1 9 3 9 年 の 名 古 屋 帝 国 大 学 と い う 順 で あ る 。 な ん と 日 本 政 府 は 大 阪 や 名 古 屋 よ り も 先 に 朝 鮮 や 台 湾 に 帝 国 大 学 を 造 っ て い る の だ 。 ま た 日 本 政 府 は 朝 鮮 人 も 中 国 人 も 陸 軍 士 官 学 校 へ の 入 校 を 認 め た 。 戦 後 マ ニ ラ の 軍 事 裁 判 で 死 刑 にな っ た 朝 鮮 出 身 の 洪 思 翊 と い う 陸 軍 中 将 が い る 。 こ の 人 は 陸 軍 士 官 学 校 2 6 期 生 で 、 硫 黄 島 で 勇 名 を は せ た 栗 林 忠 道 中 将 と 同 期 生 で あ る 。 朝 鮮 名 の ま ま で 帝 国 陸 軍 の 中 将 に 栄 進 し た 人 で あ る 。 ま た そ の 1 期 後輩 に は 金 錫 源 大 佐 が い る 。 日 中 戦 争 の 時 、 中 国 で 大 隊 長 で あ っ た 。 日 本 兵 約 1 千 名 を 率 い て 何 百 年 も 虐 め ら れ 続 け た 元 宗 主 国 の 中 国 軍 を 蹴 散 ら し た 。 そ の 軍 功 著 し い こ と に よ り 天 皇 陛 下 の 金 賜 勲 章 を 頂 い て い る 。 も ち ろ ん 創 氏 改 名 な ど し て い な い 。 中 国 で は 蒋 介 石 も 日 本 の 陸 軍 士 官 学 校 を 卒 業 し 新 潟 の 高 田 の 連 隊 で 隊 付 き 教 育 を 受 け て い る 。 1 期後 輩 で 蒋 介 石 の 参 謀 で 何 応 欽 も い る 。

李 王 朝 の 最 後 の 殿 下 で あ る 李 垠 殿 下 も 陸 軍 士 官 学 校 の 2 9 期 の 卒 業生 で あ る 。 李 垠 殿 下 は 日 本 に 対 す る 人 質 の よ う な 形 で 1 0 歳 の 時 に 日 本 に 来 ら れ る こ と に な っ た 。 し か し 日 本 政 府 は 殿 下 を 王 族 と し て 丁 重 に 遇 し 、 殿 下 は 学 習 院 で 学 ん だ あ と 陸 軍 士 官 学 校 を ご 卒 業 に な っ た 。陸 軍 で は 陸 軍 中 将 に 栄 進 さ れ ご 活 躍 さ れ た 。 こ の 李 垠 殿 下 の お 妃 と なら れ た の が 日 本 の 梨 本 宮 方 子 妃 殿 下 で あ る 。 こ の 方 は 昭 和 天 皇 の お 妃 候 補 で あ っ た 高 貴 な お 方 で あ る 。 も し 日 本 政 府 が 李 王 朝 を 潰 す つ も りな ら こ の よ う な 高 貴 な 方 を 李 垠 殿 下 の も と に 嫁 が せ る こ と は な か っ た で あ ろ う 。 因 み に 宮 内 省 は お 二 人 の た め に 1 9 3 0 年 に 新 居 を 建 設 し た 。 現 在 の 赤 坂 プ リ ン ス ホ テ ル 別 館 で あ る 。 ま た 清 朝 最 後 の 皇 帝 ま た 満 州帝 国 皇 帝 で あ っ た 溥 儀 殿 下 の 弟 君 で あ る 溥 傑 殿 下 の も と に 嫁 が れ た の は 、 日 本 の 華 族 嵯 峨 家 の 嵯 峨 浩 妃 殿 下 で あ る 。

こ れ を 当 時 の 列 強 と い わ れ る 国 々 と の 比 較 で 考 え て み る と 日 本 の 満 州 や 朝 鮮 や 台 湾 に 対 す る 思 い 入 れ は 、 列 強 の 植 民 地 統 治 と は 全 く 違 っ て い る こ と に 気 が つ く で あ ろ う 。 イ ギ リ ス が イ ン ド を 占 領 し た が イ ン ド 人 の た め に 教 育 を 与 え る こ と は な か っ た 。 イ ン ド 人 を イ ギ リ ス の 士 官 学 校 に 入 れ る こ と も な か っ た 。 も ち ろ ん イ ギ リ ス の 王 室 か ら イ ン ド に 嫁 が せ る こ と な ど 考 え ら れ な い 。 こ れ は オ ラ ン ダ 、 フ ラ ン ス 、 ア メ リ カ な ど の 国 々 で も 同 じ こ と で あ る 。 一 方 日 本 は 第 2 次 大 戦 前 か ら 5 族 協 和 を 唱 え 、 大 和 、 朝 鮮 、 漢 、 満 州 、 蒙 古 の 各 民 族 が 入 り 交 じ っ て 仲 良 く 暮 ら す こ と を 夢 に 描 い て い た 。 人 種 差 別 が 当 然 と 考 え ら れ て い た 当 時 に あ っ て 画 期 的 な こ と で あ る 。 第 1 次 大 戦 後 の パ リ 講 和 会 議 に お い て 、 日 本 が 人 種 差 別 撤 廃 を 条 約 に 書 き 込 む こ と を 主 張 し た 際 、 イ ギ リ ス や ア メ リ カ か ら 一 笑 に 付 さ れ た の で あ る 。 現 在 の 世 界 を 見 れ ば 当 時 日 本 が 主 張 し て い た と お り の 世 界 に な っ て い る 。

時 間 は 遡 る が 、 清 国 は 1 9 0 0 年 の 義 和 団 事 件 の 事 後 処 理 を 迫 ら れ 1 9 0 1 年 に 我 が 国 を 含 む 11 カ 国 と の 間 で 義 和 団 最 終 議 定 書 を 締 結 し た 。そ の 結 果 と し て 我 が 国 は 清 国 に 駐 兵 権 を 獲 得 し 当 初 2 6 0 0 名 の 兵 を 置 い た 「 廬 溝 橋 事 件 の 研 究 (秦 郁 彦 、 東 京 大 学 出 版 会 )」。 ま た 1 9 1 5 年 に は 袁 世 凱 政 府 と の 4 ヶ 月 に わ た る 交 渉 の 末 、 中 国 の 言 い 分 も 入 れ て 、 い わ ゆ る 対 華 2 1 箇 条 の 要 求 に つ い て 合 意 し た 。 こ れ を 日 本 の 中 国 侵 略 の 始 ま り と か 言 う 人 が い る が 、 こ の 要 求 が 、 列 強 の 植 民 地 支 配 が 一 般 的 な 当 時 の 国 際 常 識 に 照 ら し て 、 そ れ ほ ど お か し な も の と は 思 わ な い 。 中 国 も 一 度 は 完 全 に 承 諾 し 批 准 し た 。 し か し 4 年 後 の 1 9 1 9 年 、 パ リ 講 和 会 議 に 列 席 を 許 さ れ た 中 国 が 、 ア メ リ カ の 後 押 し で 対 華 2 1 箇 条 の 要 求 に 対 す る 不 満 を 述 べ る こ と に な る 。 そ れ で も イ ギ リ ス や フ ラ ン ス な ど は 日 本 の 言 い 分 を 支 持 し て く れ た の で あ る 「 日 本 史 か ら 見 た 日 本 人 ・ 昭 和 編 ( 渡 部 昇 一 、 祥 伝 社 )」。 ま た 我 が 国 は 蒋 介 石 国 民 党 と の 間 で も 合 意 を 得 ず し て 軍 を 進 め た こ と は な い 。 常 に 中 国 側 の 承 認 の 下 に 軍 を 進 め て い る 。1 9 0 1 年 か ら 置 か れ る こ と に な っ た 北 京 の 日 本 軍 は 、3 6 年 後 の 廬 溝 橋 事 件 の 時 で さ え 5 6 0 0 名 に し か な っ て い な い「 廬 溝 橋 事 件 の 研 究 (秦 郁 彦 、東 京 大 学 出 版 会 )」。こ の と き 北 京 周 辺 に は 数 十 万 の 国 民 党 軍 が 展 開 し て お り 、 形 の 上 で も 侵 略 に は ほ ど 遠 い 。 幣 原 喜 重 郎 外 務 大 臣 に 象 徴 さ れ る 対 中 融 和 外 交 こ そ が 我 が 国 の 基 本 方 針 で あ り 、 そ れ は 今 も 昔 も 変 わ ら な い 。

さ て 日 本 が 中 国 大 陸 や 朝 鮮 半 島 を 侵 略 し た た め に 、 遂 に 日 米 戦 争 に 突 入 し 3 百 万 人 も の 犠 牲 者 を 出 し て 敗 戦 を 迎 え る こ と に な っ た 、日 本 は 取 り 返 し の 付 か な い 過 ち を 犯 し た と い う 人 が い る 。 し か し こ れ も 今 で は 、 日 本 を 戦 争 に 引 き ず り 込 む た め に 、 ア メ リ カ に よ っ て 慎 重 に 仕 掛 け ら れ た 罠 で あ っ た こ と が 判 明 し て い る 。 実 は ア メ リ カ も コ ミ ン テ ル ン に 動 か さ れ て い た 。 ヴ ェ ノ ナ フ ァ イ ル と い う ア メ リ カ の 公 式 文 書 が あ る 。米 国 国 家 安 全 保 障 局( N S A )の ホ ー ム ペ ー ジ に 載 っ て い る 。 膨 大 な 文 書 で あ る が 、 月 刊 正 論 平 成 1 8 年 5 月 号 に 青 山 学 院 大 学 の 福 井 助 教 授 (当 時 )が 内 容 を か い つ ま ん で 紹 介 し て く れ て い る 。 ヴ ェ ノ ナフ ァ イ ル と は 、 コ ミ ン テ ル ン と ア メ リ カ に い た エ ー ジ ェ ン ト と の 交 信 記 録 を ま と め た も の で あ る 。ア メ リ カ は 1 9 4 0 年 か ら 1 9 4 8 年 ま で の 8 年 間 こ れ を モ ニ タ ー し て い た 。当 時 ソ 連 は 1 回 限 り の 暗 号 書 を 使 用 し て い た た め ア メ リ カ は こ れ を 解 読 で き な か っ た 。 そ こ で ア メ リ カ は 、 日 米 戦 争 の 最 中 で あ る 1 9 4 3 年 か ら 解 読 作 業 を 開 始 し た 。 そ し て な ん と 3 7 年 も か か っ て 、レ ー ガ ン 政 権 が 出 来 る 直 前 の 1 9 8 0 年 に 至 っ て 解 読 作 業 を 終 え た と い う か ら 驚 き で あ る 。 し か し 当 時 は 冷 戦 の 真 っ 只 中 で あ っ た た め に ア メ リ カ は こ れ を 機 密 文 書 と し た 。 そ の 後 冷 戦 が 終 了 し 1 9 9 5 年 に 機 密 が 解 除 さ れ 一 般 に 公 開 さ れ る こ と に な っ た 。 こ れ に よ れ ば 1 9 3 3 年 に 生 ま れ た ア メ リ カ の フ ラ ン ク リ ン ・ ル ー ズ ベ ル ト 政 権 の 中 に は 3 百 人 の コ ミ ン テ ル ン の ス パ イ が い た と い う 。そ の 中 で 昇 り つ め た の は 財 務 省 ナ ン バ ー 2 の 財 務 次 官 ハ リ ー・ホ ワ イ ト で あ っ た 。 ハ リ ー ・ ホ ワ イ ト は 日 本 に 対 す る 最 後 通 牒 ハ ル ・ ノ ー ト を 書 い た 張 本 人 で あ る と 言 わ れ て い る 。 彼 は ル ー ズ ベ ル ト 大 統 領 の 親 友 で あ る モ ー ゲ ン ソ ー 財 務 長 官 を 通 じ て ル ー ズ ベ ル ト 大 統 領 を 動 か し 、 我 が 国 を 日 米 戦 争 に 追 い 込 ん で い く 。 当 時 ル ー ズ ベ ル ト は 共 産 主 義 の 恐 ろ し さ を 認 識 し て い な か っ た 。 彼 は ハ リ ー ・ ホ ワ イ ト ら を 通 じ て コ ミ ン テ ル ン の 工 作 を 受 け 、戦 闘 機 1 0 0 機 か ら な る フ ラ イ イ ン グ タ イ ガ ー ス を 派 遣 す る な ど 、 日 本 と 戦 う 蒋 介 石 を 、 陰 で 強 力 に 支 援 し て い た 。 真 珠 湾 攻 撃 に 先 立 つ 1 ヶ 月 半 も 前 か ら 中 国 大 陸 に お い て ア メ リ カ は 日 本 に 対 し 、 隠 密 に 航 空 攻 撃 を 開 始 し て い た の で あ る 。

ル ー ズ ベ ル ト は 戦 争 を し な い と い う 公 約 で 大 統 領 に な っ た た め 、 日 米 戦 争 を 開 始 す る に は ど う し て も 見 か け 上 日 本 に 第 1 撃 を 引 か せ る 必 要 が あ っ た 。 日 本 は ル ー ズ ベ ル ト の 仕 掛 け た 罠 に は ま り 真 珠 湾 攻 撃 を 決 行 す る こ と に な る 。さ て 日 米 戦 争 は 避 け る こ と が 出 来 た の だ ろ う か 。 日 本 が ア メ リ カ の 要 求 す る ハ ル ・ ノ ー ト を 受 け 入 れ れ ば 一 時 的 に せ よ 日 米 戦 争 を 避 け る こ と は 出 来 た か も し れ な い 。 し か し 一 時 的 に 戦 争 を避 け る こ と が 出 来 た と し て も 、当 時 の 弱 肉 強 食 の 国 際 情 勢 を 考 え れ ば 、 ア メ リ カ か ら 第 2, 第 3 の 要 求 が 出 て き た で あ ろ う こ と は 容 易 に 想 像 が つ く 。 結 果 と し て 現 在 に 生 き る 私 た ち は 白 人 国 家 の 植 民 地 で あ る 日 本 で 生 活 し て い た 可 能 性 が 大 で あ る 。 文 明 の 利 器 で あ る 自 動 車 や 洗 濯 機 や パ ソ コ ン な ど は 放 っ て お け ば い つ か は 誰 か が 造 る 。 し か し 人 類 の 歴 史 の 中 で 支 配 、 被 支 配 の 関 係 は 戦 争 に よ っ て の み 解 決 さ れ て き た 。 強 者 が 自 ら 譲 歩 す る こ と な ど あ り 得 な い 。 戦 わ な い 者 は 支 配 さ れ る こ と に 甘 ん じ な け れ ば な ら な い 。

さ て 大 東 亜 戦 争 の 後 、 多 く の ア ジ ア 、 ア フ リ カ 諸 国 が 白 人 国 家 の 支 配 か ら 解 放 さ れ る こ と に な っ た 。 人 種 平 等 の 世 界 が 到 来 し 国 家 間 の 問 題 も 話 し 合 い に よ っ て 解 決 さ れ る よ う に な っ た 。 そ れ は 日 露 戦 争 、 そ し て 大 東 亜 戦 争 を 戦 っ た 日 本 の 力 に よ る も の で あ る 。 も し 日 本 が あ の 時 大 東 亜 戦 争 を 戦 わ な け れ ば 、 現 在 の よ う な 人 種 平 等 の 世 界 が 来 る の が あ と 百 年 、 2 百 年 遅 れ て い た か も し れ な い 。 そ う い う 意 味 で 私 た ち は 日 本 の 国 の た め に 戦 っ た 先 人 、 そ し て 国 の た め に 尊 い 命 を 捧 げ た 英 霊 に 対 し 感 謝 し な け れ ば な ら な い 。 そ の お 陰 で 今 日 私 た ち は 平 和 で 豊 か な 生 活 を 営 む こ と が 出 来 る の だ 。

一 方 で 大 東 亜 戦 争 を 「 あ の 愚 劣 な 戦 争 」 な ど と い う 人 が い る 。 戦 争 な ど し な く て も 今 日 の 平 和 で 豊 か な 社 会 が 実 現 で き た と 思 っ て い る の で あ ろ う 。 当 時 の 我 が 国 の 指 導 者 は み ん な 馬 鹿 だ っ た と 言 わ ん ば か り で あ る 。や ら な く て も い い 戦 争 を や っ て 多 く の 日 本 国 民 の 命 を 奪 っ た 。 亡 く な っ た 人 は み ん な 犬 死 に だ っ た と 言 っ て い る よ う な も の で あ る 。 し か し 人 類 の 歴 史 を 振 り 返 れ ば こ と は そ う 簡 単 で は な い こ と が 解 る 。 現 在 に お い て さ え 一 度 決 定 さ れ た 国 際 関 係 を 覆 す こ と は 極 め て 困 難 で あ る 。 日 米 安 保 条 約 に 基 づ き ア メ リ カ は 日 本 の 首 都 圏 に も 立 派 な 基 地 を 保 有 し て い る 。 こ れ を 日 本 が 返 し て く れ と 言 っ て も そ う 簡 単 に は 返 っ て こ な い 。 ロ シ ア と の 関 係 で も 北 方 四 島 は 6 0 年 以 上 不 法 に 占 拠 され た ま ま で あ る 。 竹 島 も 韓 国 の 実 行 支 配 が 続 い て い る 。

東 京 裁 判 は あ の 戦 争 の 責 任 を 全 て 日 本 に 押 し 付 け よ う と し た も の で あ る 。 そ し て そ の マ イ ン ド コ ン ト ロ ー ル は 戦 後 6 3 年 を 経 て も な お 日 本 人 を 惑 わ せ て い る 。 日 本 の 軍 は 強 く な る と 必 ず 暴 走 し 他 国 を 侵 略 す る 、 だ か ら 自 衛 隊 は 出 来 る だ け 動 き に く い よ う に し て お こ う と い う も の で あ る 。 自 衛 隊 は 領 域 の 警 備 も 出 来 な い 、 集 団 的 自 衛 権 も 行 使 出 来 な い 、 武 器 の 使 用 も 極 め て 制 約 が 多 い 、 ま た 攻 撃 的 兵 器 の 保 有 も 禁 止 さ れ て い る 。 諸 外 国 の 軍 と 比 べ れ ば 自 衛 隊 は 雁 字 搦 め で 身 動 き で き な い よ う に な っ て い る 。 こ の マ イ ン ド コ ン ト ロ ー ル か ら 解 放 さ れ な い 限 り 我 が 国 を 自 ら の 力 で 守 る 体 制 が い つ に な っ て も 完 成 し な い 。 ア メ リ カ に 守 っ て も ら う し か な い 。 ア メ リ カ に 守 っ て も ら え ば 日 本 の ア メ リ カ 化 が 加 速 す る 。 日 本 の 経 済 も 、 金 融 も 、 商 慣 行 も 、 雇 用 も 、 司 法 も ア メ リ カ の シ ス テ ム に 近 づ い て い く 。 改 革 の オ ン パ レ ー ド で 我 が 国 の 伝 統 文 化 が 壊 さ れ て い く 。 日 本 で は い ま 文 化 大 革 命 が 進 行 中 な の で は な い か 。 日 本 国 民 は 2 0 年 前 と 今 と で は ど ち ら が 心 安 ら か に 暮 ら し て い る の だ ろ う か 。 日 本 は 良 い 国 に 向 か っ て い る の だ ろ う か 。 私 は 日 米 同 盟 を 否 定 し て い る わ け で は な い 。 ア ジ ア 地 域 の 安 定 の た め に は 良 好 な 日 米 関 係 が 必 須 で あ る 。 但 し 日 米 関 係 は 必 要 な と き に 助 け 合 う 良 好 な 親 子 関 係 の よ う な も の で あ る こ と が 望 ま し い 。 子 供 が い つ ま で も 親 に 頼 り き っ て い る よ う な 関 係 は 改 善 の 必 要 が あ る と 思 っ て い る 。

自 分 の 国 を 自 分 で 守 る 体 制 を 整 え る こ と は 、 我 が 国 に 対 す る 侵 略 を 未 然 に 抑 止 す る と と も に 外 交 交 渉 の 後 ろ 盾 に な る 。 諸 外 国 で は 、 ご く 普 通 に 理 解 さ れ て い る こ の こ と が 我 が 国 に お い て は 国 民 に 理 解 が 行 き 届 か な い 。 今 な お 大 東 亜 戦 争 で 我 が 国 の 侵 略 が ア ジ ア 諸 国 に 耐 え が た い 苦 し み を 与 え た と 思 っ て い る 人 が 多 い 。 し か し 私 た ち は 多 く の ア ジ ア 諸 国 が 大 東 亜 戦 争 を 肯 定 的 に 評 価 し て い る こ と を 認 識 し て お く 必 要 が あ る 。 タ イ で 、 ビ ル マ で 、 イ ン ド で 、 シ ン ガ ポ ー ル で 、 イ ン ド ネ シア で 、 大 東 亜 戦 争 を 戦 っ た 日 本 の 評 価 は 高 い の だ 。 そ し て 日 本 軍 に 直 接 接 し て い た 人 た ち の 多 く は 日 本 軍 に 高 い 評 価 を 与 え 、 日 本 軍 を 直 接 見 て い な い 人 た ち が 日 本 軍 の 残 虐 行 為 を 吹 聴 し て い る 場 合 が 多 い こ と も 知 っ て お か な け れ ば な ら な い 。 日 本 軍 の 軍 紀 が 他 国 に 比 較 し て 如 何 に 厳 正 で あ っ た か 多 く の 外 国 人 の 証 言 も あ る 。 我 が 国 が 侵 略 国 家 だ っ た な ど と い う の は 正 に 濡 れ 衣 で あ る 。

日 本 と い う の は 古 い 歴 史 と 優 れ た 伝 統 を 持 つ 素 晴 ら し い 国 な の だ 。 私 た ち は 日 本 人 と し て 我 が 国 の 歴 史 に つ い て 誇 り を 持 た な け れ ば な ら な い 。 人 は 特 別 な 思 想 を 注 入 さ れ な い 限 り は 自 分 の 生 ま れ た 故 郷 や 自 分 の 生 ま れ た 国 を 自 然 に 愛 す る も の で あ る 。 日 本 の 場 合 は 歴 史 的 事 実 を 丹 念 に 見 て い く だ け で こ の 国 が 実 施 し て き た こ と が 素 晴 ら し い こ と で あ る こ と が わ か る 。 嘘 や ね つ 造 は 全 く 必 要 が な い 。 個 別 事 象 に 目 を 向 け れ ば 悪 行 と 言 わ れ る も の も あ る だ ろ う 。 そ れ は 現 在 の 先 進 国 の 中 で も 暴 行 や 殺 人 が 起 こ る の と 同 じ こ と で あ る 。 私 た ち は 輝 か し い 日 本 の 歴 史 を 取 り 戻 さ な け れ ば な ら な い 。 歴 史 を 抹 殺 さ れ た 国 家 は 衰 退 の 一 途 を 辿 る の み で あ る 。


11月3日 追記

201 :名無しさん@九周年:2008/11/03(月) 20:48:20 ID:6YI5LQ0f0

昭和12年7月 7日 支那側からの発砲がきっかけで盧溝橋事件勃発。
昭和12年7月 9日 現地停戦協定により一旦終息。
昭和12年7月10日 200人以上の支那兵が迫撃砲で攻撃再開。
昭和12年7月11日 現地停戦協定により一旦終息。
昭和12年7月13日 北平(北京)大紅門で日本軍トラックが爆破され日本兵4人死亡。
昭和12年7月14日 団河で支那兵の襲撃により日本兵1人死亡。
昭和12年7月20日 盧溝橋城の支那兵より日本兵に対し一斉射撃。
昭和12年7月25日 電線を修理していた通信部隊及びその援護部隊が
            支那軍の包囲攻撃(小銃、軽機関銃、迫撃砲)を受ける。(廊坊事件)
昭和12年7月26日 北平広安門通過中の日本兵が城壁上の支那兵より
             一斉射撃を受ける。(広安門事件)
昭和12年7月29日 3千人の支那保安隊が220人以上の在留邦人を
             虐殺する。(通州事件)

停戦協定を結んだにもかかわらず、支那側はこれら事件を次々に巻き起こしたのだ。これだけでも開戦の口実に十分足るにも関わらず、日本は外交交渉での解決を目指した。そして、支那側に最大限譲歩した和平案を用意し、上海において支那側との和平交渉に望む予定だった8月9日当日、支那保安隊による大山勇夫海軍中尉と斎藤一等水兵虐殺事件が起こった。

続いて、支那政府は、英米仏伊四ヶ国の斡旋で締結された上海停戦協定に違反して次々と正規軍を上海に投入、8月13日に日本海軍陸戦隊(国際条約により駐留)を包囲攻撃し、支那空軍も日本海軍の「出雲」や総領事館を爆撃し、上海南京戦区の張治中司令官は総攻撃を命じた。支那空軍は日本海軍や総領事館だけでなく支那市民や他の外国租界の建物まで空襲して爆弾を投下し、多くの犠牲者(数千人)を出し、8月15日の張治中司令官の記者会見で日本海軍航空隊が上海を空襲し陸戦隊が砲撃していると嘘を発表した。その結果一気に反日感情が高まった。これで日本軍の侵略が世界を駆けめぐった。

完全に支那の謀略である。


田母神氏の更迭についての意見メールの窓口

首相官邸
http://www.kantei.go.jp/jp/forms/dokusha.html

自民党
http://meyasu.jimin.or.jp/cgi-bin/jimin/meyasu-entry.cgi

防衛省
http://www.mod.go.jp/goikenbako/index.htm


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