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Category : 自虐史観からの脱却

回天の志

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Japan On the Globe(610)   国際派日本人養成講座

国柄探訪: 回天の志

「戦友たちは何のために自分の命を捧げたのかを、是非とも今の若者に理解してほしい」

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回天
亡国の危機に際し、多くの若者が人間魚雷・回天に乗り込み、家族や同胞を守るために出撃していった。

■1.「嫌だと思うものは、遠慮なく申し出ろ」■

竹林博ら、第13期甲種飛行予科練習生100人が山口県周防灘の入り江に浮かぶ大津島に着いたのは、昭和19(1944)年9月21日だった。食料などの積み卸しを終えると、「海軍大臣の許可なき者出入を禁ず」と書かれた建物の中に入った。

中は薄暗く、目をこらすと直系1メートル、全長15メートルほどの円筒形の黒い塊があった。そばに立っていた板倉少佐が言った。

これが貴様たちが乗る一人乗りの人間魚雷である。もちろん、一度出発したら、絶対に帰ってくることはできない。よく見て、そんなつもりではなかったと思うもの、俺は嫌だと思うものは、遠慮なく申し出ろ。俺が責任を持って原隊に帰してやる。

竹林は、今にも爆発しそうな黒い塊に震えを感じた。人間魚雷「回天」の開発者・黒木博司大尉(殉職後、少佐に昇進)は、わずか2週間前に回天の訓練中の事故で、殉職していた。

黒木少佐の殉職はショックだったが、それ以上に、後に続くんだと奮起した。それは私だけではなかった。当時、大津島にいた隊員はみんな、生の執着よりも、今の戦況では自分の命を投げ出さねばならないと心に決めていた。

■2.「後顧の憂いなきか否か、よく考えて提出するように」■

甲種飛行予科練習生はパイロットを大量養成するために採用された満15歳から20歳未満の若者たちだ。竹林は札幌生まれの当時19歳で、大空への夢を抱いて、応募、入隊し、茨城県の土浦海軍航空隊で学んでいた。

一月ほど前の8月28日朝、突然、偵察専修者約1500名に非常招集がかかった。集合場所の大格納庫は、白い練習衣に白い艦内帽をかぶった練習生であふれた。猛暑の中、出入り口や窓が閉ざされて、息がつまるような熱気の中、練習生たちは直立不動のまま、司令の言葉に耳を傾けた。

残念なことだが、前線将兵の奮戦にもかかわらず、一日一日と敵の反撃の波は強く打ち寄せている。サイパンが陥(お)ち、ラバウルに孤立した海軍航空隊すら、十分補給もできない現状である。・・・

そして今、この窮状にこたえて、敵撃滅の新兵器が考案された。否、もう試作を終え、米海軍に一大反撃を展開する日も近い。

殉国の熱情に燃える諸子の中から、この兵器に乗って参加したい者があったら、後に紙を配るから、分隊名、名前を書いた上、熱望は二重丸を、どちらでもよい者はただの丸を書いて分隊長に提出しろ。

ただし、最後に言っておくが、この兵器は生還を期するという考えは抜きにして製作されたものであるから、後顧の憂いなきか否か、よく考えて提出するように。

■3.「日本が敗れ、米兵が上陸してくると家族はどうなるのか」■

竹林は躊躇しなかった。用紙が配られると即座に二重丸を書き、その上に「絶対」に2文字を付け加えた。

旗色は本当に悪いのだ。もし、日本が敗れ、米兵が上陸してくると家族はどうなるのか。家屋は焼き払われ、家族や親類、隣近所の人たちも、全員、殺されてしまうのではないか。

こうした気持ちはほとんどの者に共通していた。9割以上の練習生が二重丸を書き、中には血判を押して提出する者もあった。

翌日、100人が選ばれた。最も重要な選考基準は、後顧の憂いがないかどうか、すなわち兄弟の多い者ということだった。竹林は兄が一人いるだけだったが、攻撃精神旺盛ということで選ばれた。洩れた熱望者の中には、「どうして自分は落ちたのか」と分隊長に激しく詰め寄る者もいた。

■4.「俺たちもすぐに行くから靖国神社で待っていてくれ」■

大津島に着いても、回天の操縦訓練はすぐには始まらなかった。訓練用の回天が3基しかなかったからだ。出撃が決まった順に、訓練が行われた。

竹林らには、その順番が回ってこず、毎朝6時半に起床してからは、回天の機構や整備の座学、調整場での整備の手伝いを中心に過ごした。夕方からは搭乗訓練の後の研究会が開かれ、搭乗訓練をしていない竹林らも傍聴した。研究会では階級に関係なく激しい議論が行われ、深更に及ぶことも希ではなかった。

大津島に赴任して、約1カ月経った10月半ば、第一次回天特攻隊「菊水隊」が出陣した。3隻の潜水艦に各4基の回天を搭載、合計12名の搭乗員が出陣した。西太平洋のカロリン諸島に集結する機動部隊へ奇襲をかけるためだった。12名の搭乗員は、母艦の艦橋や回天の上から、抜き放った軍刀をかざして、万歳を叫びながら、出撃していった。竹林らも大歓声で見送った。

12月末には、竹林らと一緒に来た二人の搭乗員が、第2次回天特攻隊「金剛隊」としてグアム島を目指して出撃した。「俺たちもすぐに行くから靖国神社で待っていてくれ」 そう言いつつも、竹林は涙が出て仕方なかった。

■5.「真っ暗な道をヘッドライトをつけずに車を操縦するようなもの」■

翌年3月、ようやく竹林にも訓練開始の命令が出た。覚悟していたとはいえ、操縦席に腰を下ろし、ハッチを閉めた瞬間、すさまじい孤独と恐怖が襲った。回天の操縦は、例えて言えば、真っ暗な道をヘッドライトをつけずに車を操縦するようなものだという。

しかも、電動縦舵機のスイッチを入れ、発進準備が整うまで、19もの動作があり、これを正確に順序通りに行わないと、発信しないばかりか、途中で酸素爆発を起こす危険があった。

1回の訓練は1時間から1時間半。ストップウォッチだけを頼りに、速度と航行時間から自分の位置を推定し、地図に記入しながら進む。

海軍兵学校出身で、同じく回天搭乗員となった小灘利春は、こう述べている。

「軍部に強制されて」「人間魚雷の操縦席に、無理やり押し込まれる」、ひどいのになると「殴りつけて特攻をやらせた」と書く者がいるが、そのような性格の兵器では毛頭ない。そんなことで操縦できる回天ではないし、まして命中できる筈がないではないか。回天は搭乗員が「自分自身」で乗り込み、自分の意思で突撃するものである。

■6.「早く発進させてください」■

昭和20(1945)年7月14日、竹林ら6人の搭乗員は、伊号53潜水艦に乗り込み、沖縄とフィリピンの中間海域を目指して出撃した。すでに沖縄は敵の手に落ちており、そこに九州上陸のための人員や兵器が集積されつつあった。その輸送路を遮断することが目的だった。

出航10日後の7月24日、敵の大輸送船団を発見した。「回天戦用意! 発進用意」と大場艦長の声が艦内に響いた。竹林ら6人は母艦と回天を結ぶ交通筒を駆け上がって、ハッチを閉めた。その瞬間、竹林には「これでこの世とお別れだ」という気持ちがこみあげてきた。「ハッチよし、電動縦舵機よし、深度計よし、特眼鏡よし、艇内異常なし」と、回天と母艦を結ぶ電話を使って、艦長に伝える。

だが、潜望鏡で輸送船団の動向を追う大場艦長は「距離が離れすぎた」と出撃命令をためらう。そこに搭乗員の一人、勝山淳中尉(20歳)の悲痛な声が電話を通じて届いた。「早く発進させてください。こんな船団はめったに出会えません。お願いです」

誰もが固唾を呑んで待つ中で、「固縛バンドを外せ」との大場艦長の声が響いた。特眼鏡をのぞいていた竹林の視界が、勝山艇のスクリューが作り出す泡と吐き出す蒸気で一瞬、真っ白になった。泡が消えて視界が戻ると、目の前にあった回天の姿 はなく、外されたバンドだけが残っていた。「ああ、本当に出撃していった・・・」

それから約40分後、激しい爆発音が響いてきた。大場艦長は潜望鏡で黒煙が立ち上る敵艦を確認し、「大型輸送船一隻轟沈」と打電した。

戦後の米軍側の証言では、勝山艇は間断なく投下される機雷をかいくぐり、大型輸送船の艦底を通り抜け、折り返して再度突入した。潜行して見えないまま襲ってくる回天は、米軍を恐怖の底に陥れた。

■7.「魂は永久に留まりて故郷の山河を同胞を守らん」■

5日後の29日、再び、十数隻の大輸送船団を発見。川尻勉一飛曹(17歳)が発進命令を受けた。

「関少尉や荒川らに頑張るように言ってください。伊53潜万歳!」 この声を最後に川尻艇が出撃。約1時間後に凄まじい大音響が響き、大場艦長は潜望鏡で黒煙を確認した。

川尻は遺書に、日本男子として出撃の好機を得た喜びと、親への感謝を綴り、こう結んだ。

日本に如何なる危難襲うとも、必ずや護国の鬼と化して大日本帝国の盾とならん。身は大東亜の防波堤の一個の石として南海に消ゆるとも、魂は永久に留まりて故郷の山河を同胞を守らん。

身は消えて 姿この世になけれども魂残りて 撃ちてしやまん

ご両親、近所の方々(略)に永年の御高恩を謝しつつ喜んで死んでいきましたと呉々もよろしくお伝え下され度候

■8.「伊53潜は必ず生き延びて下さい」■

回天搭乗員6人のうち、2人を失った伊53潜は、さらに索敵を続けた。8月4日午前零時半頃、頭上からダダーン、ダダーンという爆発音が響き、艦が叩き上げられるように激しく揺れた。敵の爆雷攻撃である。最新鋭の「三式探信儀」で探ると、5隻の敵艦船が爆雷を投下しているのが分かった。

伊53潜は100メートルの深度まで急速潜行し、さらに左右への急旋回を繰り返して爆雷攻撃を避けた。しかし、至近距離で爆雷が炸裂するたびに、艦は激しく揺すぶられ、乗組員が床に叩きつけられた。主蓄電池も破損し、一切の動力が停止し、電灯も消えて真っ暗になった。

回天搭乗員の一人、関豊興(とよおき)少尉(22歳)が司令塔に現れて、大場艦長に言った。

相手が駆逐艦でも不足ではありません。我々は回天で突入することを本望としております。このままでは死にきれません。必ず成功させます。

この一言で大場艦長の腹が決まった。「回天戦、用意」。4人の搭乗員が、それぞれの回天に乗り込んだ。訓練したこともない水深からの発進である。

敵艦隊は必ず仕留めます。伊53潜は必ず生き延びて下さい。私の最後のお願いです。

電話を通して関の声が艦内に響いた。関艇が発進した。20分後、大爆音が轟いた。

それを待っていたように、荒川正弘一飛曹(22歳)が電話の向こうで「すぐに出撃させて下さい」と言ってきた。

「すまんが行ってくれるか」「はい!行きます」 普段は口数の少ない荒川は、一気にまくしたてた。

頭上の艦隊は必ず退散させます。これまでいろいろありがとうございました。伊53潜は無事に帰還して下さい。そして大津島で待機している仲間のためにも働いて下さい。

発進から5分後、大爆音が響いた。爆発した距離が近かったため、余波で伊53潜も大きく揺れた。

■9.「価値ある死を選んだ者から見ると」■

いよいよ竹林艇の番が来た。大場艦長と電話を通じて、やりとりをしているうちに、頭痛がして意識が遠のくのを感じた。「少し頭が痛みます・・・」と話したのを最後に、音信が途絶えた。

伊53潜の艦内から竹林艇のハッチを開けると、竹林は操縦席でぐったりと意識を失っていた。激しい爆雷攻撃で、有毒ガスの容器が洩れ、ガス中毒となっていたのだ。

残る坂本雅刀一飛曹の艇も酸素パイプに亀裂が入り、高圧酸素が洩れて、意識を失っていた。二人ともすぐに治療を受け、なんとか一命を取り留めた。

関と荒川の決死の反撃で危機を脱した伊53潜は、広島に原爆が投下された翌日の8月7日、帰還命令を受け、12日、大津島に到着。3日後の15日に終戦を迎えた。

回天特攻作戦は、昭和19(1944)年10月から、20年8月まで続けられ、89人の搭乗員が戦死し、15人が訓練中に殉職、二人が終戦時に自決した。

竹林は、平成12(2000)年5月、北海道大学岩見沢分校で、 学生たちに講演を行い、自らの特攻の体験を語った。学生たちの顔は竹林に釘付けになり、真剣に耳を傾けた。

竹林はこう語っている。

学校で教えないから、今の学生は戦争の悲惨さや当時のことを知らなさすぎる。だから、私の話が新鮮に映ったのだと思う。戦友たちは何のために自分の命を捧げたのかを、是非とも今の若者に理解してほしい。最近、自殺が多いが、価値ある死を選んだ者から見ると、簡単に死を選ぶのは止めてもらいたい。我々には理解できないんです。今の日本人には、まず世のため、人のために役に立つんだという気持ちがほしい。 (文責:伊勢雅臣)

当時の米軍の実態については戦争中の米軍の蛮行を参照。米軍が本土に上陸してくれば、日本人が大量に暴行虐殺されるのは確実の情勢だった。戦後のGHQの占領下でさえ、米兵による万単位の婦女子レイプが発生し、1000人以上の民間の日本人が虐殺されている。

参考文献





(コメント)
回天戦の戦果に関しては、一般的には、輸送船や駆逐艦の撃沈3隻+撃破4隻程度とされている。約100名の若者の戦死に対して、この戦果では無駄死にだとの心無い批判も見受けられるが、マリアナ沖海戦とレイテ沖海戦での敗北以降、日本の連合艦隊の戦力は事実上壊滅しており、特攻作戦でも用いなければ、輸送船一隻沈められるものではなかった。そういった背景を考えれば、海と空から行われた特攻作戦は、やむにやまれぬ作戦だったとはいえ、決して無駄ではなかったと思われる。人的被害で比較すれば、回天作戦だけでも、アメリカ軍に対して少なくとも100名以上の犠牲を強いたと推測出来るし、彼我の戦力差を考えれば、これだけの戦果を挙げたこと自体、善戦に値したと思う。敵との戦力差を考慮しないで、上辺の数値だけ見て戦果云々言うのは、あまりに軍事を知らな過ぎる人間の発言だ。

特攻隊員達の記事を書くと、戦争の美化だなんだと騒ぎ立てる輩がいるが、客観的な事実や当時の搭乗員達の心情や行動を伝えることが、なぜ美化なのか、理解に苦しむ。過去の美化というのは、裏切り者の韓国人が被害者面して日本に賠償金を要求したり、密入国の朝鮮人が日帝に強制連行されたと喚くことをいう。日本のため、我々のため、命をかけて戦った英雄に感謝し、尊ぶことは人間として当然のことではないだろうか。立派な大学の先生でも、特攻をテロ扱いしていることがよくあるが、テロというのは民間人に対する無差別攻撃のことであり、強いて言えば、東京大空襲や原爆投下の方がよっぽどテロであり、非人道的であることを忘れてはならないと思う。日本の特攻は軍艦が標的であり、民間船を無差別に撃沈した米軍とは全く異なっている。学童疎開船を撃沈した米軍の行為をテロと呼ばず、日本の特攻をテロと呼ぶのでは、どう見ても論理破綻を起こしているようにしか思えない。

「靖国で会おう」と言って亡くなった英霊達に対し、いかなる理由があれ、靖国神社を参拝しなかった麻生首相もどうかと思うが、もっと酷いのは民主党をはじめとする野党一党が画策する、別の慰霊施設の建立だろう。特攻隊員達の記事を読んだ後だと冗談にしか聞こえないが、これが事実だから手に負えない。韓国、中国、在日朝鮮人達の顔色を窺って、形だけの慰霊施設を作るらしいが、義に生きた先人達に対し、現代人の不義もここに極まれり、という感想を持たざるを得ない。こんなことをされたら、英霊、神仏だけでなく、一般人だって怒りたくなるが、テレビ、新聞などのマスコミがどこも問題にしないのだから終わっている。まだ民主党が勝つとは限っていないが、勝つ可能性が高いと言われている。民主党政権が実現して、こんな靖国神社以外のアホな慰霊施設などが建設された日には、英霊にあわせる顔もないが、まあ、不甲斐ない子孫の一人としてお詫びするしかないか。


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大日本帝国による台湾・朝鮮・満州への多大な貢献  

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日本の植民地の真実  黄 文雄著  扶桑社



一.何故日本人は「植民地史」を正しく検証しないのか

・「侵略戦争」への非難に対しては、周辺諸国に反論できる日本人は増えてきたが、「植民地支配」の問題に関しては、まだまだ贖罪意識が先に立ち、史実に真向かう『勇気』がない。

・志願し、選抜され、堂々と任務を遂行したという「台湾少年工」のプライドを、大きく傷つけてしまった「日本のメディア」かな。

・近代史をいくら調べてみても、日本政府が止まることを知らない朝鮮人の内地流入を拒否し続け、朝鮮総督府が板ばさみになって苦悩したという記録以外、「強制連行の証拠」はでてこない。つまり「強制連行」はまったくの『歴史捏造』なのだ。

・韓国人にとっても反日日本人にとっても、日本の植民地に関わる問題なら、どのような嘘でもまかり通すことができると考えている。

・植民地史の正しい検証をせよ。

ニ.「台湾・朝鮮・満州=日本三大植民地」説は糾弾目的の拡大解釈(=政治的な拡大解釈)

・台湾は、最初は「植民地」。最後のほうは「内地と同一化」。

・日本と韓国は『合併』したのであって。植民地などではなかった。合併国家という「国のかたち」は、列強時代における近代国民国家の間では、むしろ主流だった。自らの生存を確保するために、同君合邦で列強を志向する潮流があったのだ。

・満州国を日本の植民地と見なすのは、まったくの歴史歪曲である。というのは満州国は主権国家としての体裁を完全に整え、ドイツ、イタリアをはじめ、当時の半数近くの国家が承認していた『独立国』である。中国も、重慶の国民政府(共産党)は不承認だったが、南京の国民政府(国民党)は承認していた。いかに戦後の中国が「偽満州国」と罵っても、この事実は否定しょうがない。日本の「内面指導」を以って独立性を否定したがる向きもあるが、それは時代の情勢によるものであって、このような例は旧ソ連の衛生諸国をはじめ、古今東西、どこにも見られることである。

三.「奪った」のではなく「与えた」のが日本の「植民地統治」

・「日本の植民地」といえば、搾取、差別、略奪、あるいは虐殺、放火、婦女暴行と、極悪非道の限りを尽くしたかのように語られ、ことに韓国などは「人類史上最悪の植民地統治」とまで強調しているが、日本が台湾・朝鮮・満州で行ったことは、実は全くその逆である。むしろ『日本(内地)国民を搾取』して、つまりその血税をつぎ込んで、これら地域を経営し、日本並みの近代社会の確立を目指し、文明開化をもたらし、殖産興業を推進したのである。

・朝鮮の場合は日本統治時代の36年間、年額15~20%の割合で、『国庫の補填』を受けつづけていた。そもそも合邦前の朝鮮は国家財政が破産の状態にあったので、日本からの財政補助は赤字財政への補填でなく、大部分が「産業投資」だった。ことに米の生産は逆さや制をとり、1943年の政府買入価格は、一石あたり64円50銭であるのに対し、市場価格は43円であった。朝鮮総督府は万難を排して米の増産を指導し、それまで慢性的だった飢饉をなくした。それは台湾でも同じで、こちらでは食糧生産を4倍増加させている。そして猛威を振るっていた風土病の撲滅や近代医療の導入と普及といった衛生環境の改善努力もあいまって、この両地域の人口は倍増するに至ったのである。つまり日本人は「植民地」で虐殺を行ったどころか、逆に衛生学的環境を創出し、人々の『生命を守った』のだ。

・日本の恩恵をそれら以上に蒙っていたのが満州だった。元来大豆や雑穀しか獲れなかったこの地において、国家予算が20億円だった日本は、累計で130億円もの資金を投入して、飛行機まで生産する一大産業国家を忽然を現出させたのである。

四.東アジア世界を一挙に近代化した日本の驚くべき歴史貢献

・朝鮮は漢城(ソウル)を除けば、火賊、草賊が跳梁(チョウリョウ)しただけでなく、疫病が蔓延して十万単位の病死者がでることも珍しくなかった。漢城にしても糞尿の垂れ流し状態で、世界一「不潔な都市」として知られていた。

・満州では馬賊が名物で、台湾と同様瘴癘(ショウレイ)の地でもあった。

・東アジアを支配し、民衆を搾取し、貧窮に陥れていたのは、台湾では兵匪、土匪であり、朝鮮では党争、両班であり、満州では軍閥、馬賊だった。そこへそれに替わり、『日本の警察』という安定勢力が入り、社会の治安と秩序を確立したことで、法治社会が実現し、近代社会の成長も初めて可能になった。そして医療、衛生、教育の環境を構築し、東アジアの宿アであった瘴癘が克服され、衛生学的社会が生まれ、人口が急増したのである。人の命にとって疫病の流行は、匪襲や戦乱の数十倍、数百倍の脅威であり、これだけとってみても、日本の功績は絶大だったと言わざるを得ない。

・日本は台湾、朝鮮、満州で、鉄道、道路、港湾、飛行場、上下水道、電力、ダムの建設、治水治山、近代産業や近代都市の建設といった『インフラ整備』だけではなく、近代的な経済、経営、社会などの諸制度を確立し、伝統文化の保護や土着の言語、文字の体系化、社会科学、自然科学、近代思想、哲学、文学、芸術の普及、そして教育の普及等々を、見事なまでに成し遂げている。

五.最大の植民地帝国ーロシアと中国を語らない戦後植民地史観の欺瞞

・ロシア帝国も、その後継国家であるソ連社会主義帝国も、スラブ民族の『膨張主義的植民政策』の結果、形成された国家である。

・スラブ人のユーラシアにおける膨張は、モンゴル人支配から解放されてからのことである。以来「大陸制覇の夢」実現のため、シベリアや中央アジアを征服し、ロシア化政策を押し進めた。

・スラブ人は世界征服を、神から授けられたロシア帝国の使命という信念をもっていたが、ソ連もそれと同様に「世界革命」を使命として、モンゴル、東欧、アフリカ諸国へと勢力を拡大して行った。しかしこうしたソ連の動きを「侵略と植民地支配」と捉え、非難する学者は極めてまれであった。

・ロシア化政策よりもしたたかな「同化政策」で、領土を拡大したのが「中華植民地帝国」で、黄河流域の中原からじわじわと、周辺諸民族を中国人に同化し、今日の版図を築き上げた。

・中華帝国の植民史は、南進歴史でもあったが、この勢力南下の限界は、すなわち華北の限界でもあった。ところが戦後になって「世界革命、人類解放」のスローガンの下、中華人民共和国が植民地帝国として復活した。そして「農奴解放」との大義名分でチベットを軍事占領し、現在では「太平洋を中国の海」とすべく、軍備拡大に猪突猛進している。

・「日本の侵略と植民地支配」が非難される一方、戦後わずか半世紀の間、モンゴル人の内モンゴル、ウイグル人のトルキスタン(新疆)にだけでも、日本の総人口に匹敵する。一億二千万以上の中国人が押し寄せ、入植、支配を行っている。

・植民史、植民政策史を語るに際し、ロシアや中国のような盲点が出てくるのは、ソ連や中国を植民地主義に反対する「平和勢力」と見なしたがる、戦後の左翼的思潮のためである。日本を悪とし、社会主義国を善とする戦後学者の「欺瞞」が、いかに日本の歴史観を狂わしているかがよくわかる。

六.建設と破壊ー植民地主義と社会主義が残した遺産

・近代植民地主義は、植民地住民に対する宗教上の伝道、文明、人道、人権の伝播、経済発展促進のための、人類の理想と考えられてきた。宗主国は、それに文明、信仰、先進、進歩、さらには理性、禁欲、勇気をいった優越的な価値を見出していた。そしてその対極として、植民地住民の未開という「負の価値」をおいていたのだ。

・先進的な民族が、自立できない後進民族を保護し、教化し、開花に導き、新しい文明を与えることこそ文明国としての義務であり、自然の摂理であると考えられていた。植民地統治というものは、本国の利己的な目的によるだけでなく、先進国としての「崇高な時代的使命」とされていたのだ。

・そもそも植民地主義も社会主義も、ともに「解放の思想」であり、コスモポリタン的な思想であり、ユートピア思想であった。違うといえば、前者「先進的民族による解放」、後者は「先進的な階級(暴民)による解放」を考えていたという点だけである。

●この二つの主義は、ともに人類最高の理想と目されたものの、「植民地主義」は、20世紀中葉に、「社会主義」は20世紀末に、それぞれ崩壊した。社会主義のイデオローグは植民地主義を徹底批判し、「悪」の烙印をおしたものの、結果的に見れば、それをこえることはできなかった。歴史貢献や歴史遺産の面で比べるならば、植民地主義は世界の近代化という多大な「建設的遺産」を残したが、社会主義は「破壊」という人類にとって悲しい遺産しか残さなかった。

七.歴史の歪曲を糾して日本の「過去」に誇りと自信を持て

・古今のあらゆる「主義」「思想」「制度」のなかで、理想の実現を達成したものはほとんどない。フランス革命以来掲げられる自由、平等、博愛といった理念も、それらの実現は難しい。そうしたなか、最も理想の実現に近づいたものが、植民地主義だった。そしてその中でも、最も成功を収めたものが『日本の植民地主義』だった。

・日本が台湾、朝鮮、満州で残した「遺産」は、ハードの面だけでなく、ソフトの面においても莫大なものがある。台湾や韓国の近代国家としての基も、戦後の中国経済を支えた満州という財産も、みな日本の「遺産」でないものはない。

・戦乱と飢饉で社会秩序が崩壊した19世紀の東アジア世界の中で、日本だけが江戸時代以来の超安定社会を維持していた。そして西力東漸に直面しても、唯一西欧文明の受容に成功し、列強に対処できるだけの人的、物的な基礎を構築した。よって日本の勢力の伸張する所にも、必ず秩序ある安定社会が形成されたのだ。又日本が匪西欧文明圏のなかで、唯一「資本の蓄積と技術開発の能力」を持っていたことも、それら地域には幸いした。

・日本は「文明開化」「殖産興業」「脱亜入欧」との近代社会建設の理念を、イデオロギーから「信仰の次元」にまで高めていた。日清・日露戦争の勝利はその成果である。そしてここで培われた経験、知識、知恵が台湾、朝鮮、満州へと拡散し、第二、第三の文明として開花し、その波は支那事変勃発後、中国の占領地にまで及んでいた。日本の植民地主義の理念はアジアを興隆させたのである。しかもそれだけではない。戦後も日本の技術と資本はアジアに拡散し続け、台湾や韓国等のアジアNIESやASEAN諸国、そして中国をも繁栄させている。

・日本人は大いに「過去に誇りを持つべき」なのだ。そのためには日本の植民地の真実の歴史を正しく理解しなくてはならない。そこで最近私は、日本の植民地主義が東アジア世界を一新したことに関し、『台湾 朝鮮 満州 日本の植民地の真実』(扶桑社)の一書を書いた。

国家の名誉も主権も守ろうとしない政治家はもうどうでもよいとしても、心配なのは次の若い世代だ。私は夜間に無気力、無目的で路上にたむろして「生きていても仕様がない」と嘆いているという最近の少年たちの話を聞くにつけ、とても心を痛めるものである。青少年に生をも放棄させるような戦後日本の教育は、すでに崩壊していると言わざるを得ない。この書を書いたのは、このような日本の現状を見て、日本人を励ます為に、私も立ち上がらなければならない、そのためにはこれを書くしかない、と痛感したからだ。

日本人が自信を取り戻すには、「歪曲された歴史を糾すしかない」ということを訴えたい。


引用元
http://ryutukenkyukai.hp.infoseek.co.jp/syokuminchino_sinjitu1.html

朝鮮半島の本当の歴史



(コメント)
個人的には日本の統治を植民地と表現するのには抵抗があるが、内容的には非常に素晴らしいので黄文雄氏の著作である『日本の植民地の真実』を御紹介したい。戦後の中国、韓国、台湾の繁栄は日本を抜きにしては語れない問題であり、中国での日本軍の行動は、反日勢力によって捏造され歪曲されている。韓国、中国の反日プロパガンダで、日本兵は残虐だったと宣伝されているが、実際に現地で略奪やレイプなどの犯罪行為を行っていたのは、中国兵や馬賊であり、給料のない彼らにとって、これが給料であり報酬だったのである。日本軍は世界でもっとも軍律が厳しく、現地民に犯罪行為を行なえば、軍法会議にかけられ、重営倉入りだった。むしろ日本軍が現地民を保護した側面が強く、満州の現地民は日本軍に感謝していた。だから戦後、満州に取り残された日本人の子供を温かく保護して、育ててくれたのである。

日本人には、一般市民を無産別に大虐殺するという発想はない。日本の長い歴史を顧みても、そういった行為は見受けられない。為政者がそんなことを行なえば、政権の正当性を失い、朝廷から追討の詔が発せられ、各地で討伐の動きが出て、たちまち政権がひっくり返ってしまうだろう。日本独自の国体の長所でもあるが、こういった歴史に育まれた日本人の品性は、世界でもかなり民度が高い部類に入る。中国、朝鮮、白人の歴史の中では、大虐殺は珍しいことではなく、南京大虐殺というのは、いかにも戦勝国の発想ででっち上げた冤罪であることが分かる。

日本軍の戦陣訓として三光作戦がでっち上げられたが、光という字は中国語で殺すという意味があり、名称からして日本軍由来のものではない。南京大虐殺の前後の南京の人口の公式記録は変化しておらず、微増すらしている。だいたい人口20万人の都市で30万人が殺されたというのはどこのお伽話なのか。写真は全て合成か、日本で発表された写真の使い古しで、調べれば調べるほどボロが出てくるものばかりだ。中国訛りの日本語を喋る日本兵の格好をした人物が出てくる映像も、いつどこで撮影されたか詳細不明の、証拠能力のない笑止な代物である。

文化大革命で粛清された中国人の遺体を展示し、南京大虐殺記念館と称して、多くの人間を騙してきたようだが、そもそも白骨を供養せずに見せ物としてさらす中国共産党の民度の低さが全てを物語っているように思える。しばらく前に、中国人がアメリカ人に「南京大虐殺の時、中国軍は何をしていたのか」と問われ、調べても答えが得られず、回答に窮したというニュースがあったが、事件そのものが存在しないのだから、答えが見つかるはずがない。答えが見つかると思っているのは反日中国人の脳内だけの話ではないだろうか。蒋介石も毛沢東も戦後賠償を放棄しているし、蒋介石にいたっては在支邦人の帰国に全面協力している。日本軍が本当に南京大虐殺を行っていたならこのようなことはしなかっただろうし、現地民や部下が納得しなかっただろう。いつまでもガイコツ並べて、日本人を欺き続けられると思っているとしたら、中国共産党の幹部の頭もかなりおめでたいと言わざるを得ない。


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日本とスリランカを結ぶ友好の歴史

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■■ Japan On the Globe(598)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

地球史探訪: 日本・スリランカ友好小史

 日本とスリランカの間には、互いに助け合った
長い友好の歴史がある。
■転送歓迎■ H21.05.17 ■ 3,118,001 Copies ■ 37,924 Views■
無料購読申込・取消: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/

■1.「日本は自由であるべきである」■

 1951(昭和26)年9月6日午前11時、スリランカ代表のJ
・R・ジャヤワルダナの演説が始まった。舞台は米国サンフラ
ンシスコ講和会議である。[a]

 51カ国からの代表が集まって、日本との講和条約を結び、
日本の独立を認めるかどうかを議論する場であった。米国が中
心となって、日本の独立を認める講和条約案がまとめられてい
たが、ソ連は日本の主権を制限する対案を提出し、さらに中国
共産党の出席を求めたりして、審議引き延ばしを図っていた。

 ジャヤワルダナ代表は、自らはスリランカ代表ではあるが、
「日本の将来に対するアジアの人々の全般的態度における彼ら
の感情をも述べうる」として、こう語った。

 アジアの諸国、セイロン(JOG注:スリランカ)、インド
及びパキスタンの日本に対する態度を活気づけた主要な理
念は日本は自由であるべきであるということであります。
・・・

「自由であるべき」とは、日本の占領を解いて、独立を回復さ
せるべき、という意味である。

■2.「アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊敬のため」■

 講和条約への賛成を表明した後、ジャヤワルダナ代表はその
理由を述べた。

 アジアの諸国民が日本は自由でなければならないという
ことに関心をもっているのは何故でありましょうか。それ
は日本とわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、
アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり日本を
保護者にして盟友として見上げていた時に、アジア隷従人
民が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。

 私は、アジアに対する共栄のスローガンが隷従人民に魅
力のあったこと、そしてビルマ、インド及びインドネシア
の指導者のあるものがかくすることにより彼等の愛する国
々が解放されるかも知れないという希望によって日本人と
同調したという前大戦中に起こった出来事を思い出すこと
ができるのであります。

「共栄のスローガン」とは、日本が大戦中に唱えた「大東亜共
栄圏」のことであり、実際に欧米諸国の植民地支配からの独立
を目指す国々の代表が東京に集まって、「大東亜会議」が開催
されている。[b]

 さらにビルマ、インド、インドネシアでは、日本が支援して
設立された独立軍が、これらの国々の独立戦争に大きな役割を
果たした。

 ジャヤワルダナ代表は、日本に対する賠償請求権を放棄する、
と続け、その理由として、仏陀の「憎悪は憎悪によって消え去
るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」を
引いた。

 ジャヤワルダナの演説が終わると、賞賛の声の嵐で会場の窓
のガラスが割れるほどであったと『サンフランシスコ・ニュー
ス』は報じている。また『サンフランシスコ・エグザミナー』
紙は「褐色のハンサムな外交官が、セイロン島よりやって来て、
世に忘れ去られようとしていた国家間の礼節と寛容を声高く説
き、鋭い理論でソ連の策略を打ち破った」と評した。

 この後、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く49カ
国が講和条約に署名し、翌年4月28日、日本はついに独立を
回復したのだった。

■3.西洋の植民地支配400年■

 おそらく当時の日本国民は、遠く離れたスリランカの一外交
官がなぜにこれほどまで日本を擁護してくれるのか、いぶかし
く思ったろう。しかし、スリランカの歴史を辿ってみれば、そ
の理由も見えてくる。

 スリランカとは「光り輝く島」という意味で、その美しい豊
かな自然から「インド洋の真珠」とも呼ばれてきた。北海道の
8割ほどの国土に、現在では2千万人の人々が住んでいる。

 紀元前5世紀に北インドから移住したシンハラ人が王国を作
り、紀元前3世紀に仏教が伝わると、それ以降、現在まで仏教
国として信仰を守ってきた。

 しかし、スリランカはインド洋交易の重要拠点であり、その
ため、早くから西洋諸国の侵略にさらされた。1505年にポルト
ガル人がやってきて、約150年間、沿岸部を支配した。1658
年からは今度はオランダが替わって約140年間、植民地支配
を続けた。さらに1796年にはイギリスが支配者となり、全島を
支配下においた。

 イギリスは、スリランカ全島を紅茶の生産基地とし、米まで
輸入しなければならない状態にしてしまった。独立を求めて大
規模な反乱が三度起きたが、いずれも武力鎮圧された。

 イギリスは南インドから移住してきた少数派のタミル人を優
遇し、彼等を教育して役人とし、多数派のシンハラ人を治めさ
せた。この巧妙な分割統治が、現在も続く民族闘争の原因となっ
た。

 同時にキリスト教徒を優遇し、仏教を抑圧した。シンハラ人
のほとんどは仏教徒で、教育を受けることも難しかった。

■4.「アジアを救うことこそ日本の役割」■

 イギリスの植民地支配のもとで衰退した仏教を再興しようと
19世紀末に立ち上がったのが、スリランカ建国の父と呼ばれ
るアナガーリカ・ダルマパーラであった。

 敬虔な仏教徒の家に生まれたが、当時のキリスト教の強い影
響で、聖書にちなんだダビッドという名をつけられていた。し
かし仏教再興運動を進める中で、自ら「アナガーリカ(出家者)
・ダルマパーラ(法の保護者)」と名乗ったのだった。

 ダルマパーラは仏教の縁で、明治22(1889)年2月に初めて
日本を訪れた。おりしも大日本帝国憲法発布式が行われており、
ダルマパーラは近代日本の胎動を目の当たりにした。

 ダルマパーラは明治25(1892)年に2回目、明治35(1902)
年に3回目の来日を果たした。3度目の来日の2か月前、日英
同盟が結ばれており、ダルマパーラは「欧米人のアジア人に対
する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるア
ジアを救うことこそ日本の役割なのだ」と語っている。

 その2年後、日本は大国ロシアに対して戦いを挑み、これを
打ち破った。日本の勝利にスリランカの人々は熱狂した。ダル
マパーラも「こんな素晴らしいことはない。皆さんは気づいて
いないかも知れないが、皆さん日本人によってアジアはまさに
死の淵から生還したのだ」と語っている。

■5.「次に生まれるときには日本に生まれたい」■

 3度の来日で、日本の驚異的な発展を目の当たりにしたダル
マパーラは、シンハラ人の自立のためには技術教育が欠かせな
いと考え、日本に留学生を派遣する財団を設立した。

 大正3(1913)年、ダルマパーラは最後の訪日を行い、帰路、
満洲と朝鮮も訪れた。日本はこれらの地に惜しみない資本投下
を行って、急速に近代化を進めていた。ダルマパーラは「日本
が2、3年の内にこの地で完成させたことを、イギリスがイン
ドで行ったならば優に50年を要していただろう」と、植民地
を搾取の対象としかみないイギリスとの違いを指摘した。

 ダルマパーラの活動によって、仏教に根ざしたシンハラ人の
民族主義運動が高まっていった。イギリスの植民地当局はこれ
を警戒し、おりから発生した暴動の首謀者としてインドで5年
間もダルマパーラを拘束した。弟も捕らえられ、半年後に獄死
した。それでもダルマパーラは運動をやめず、昭和8(1933)年、
69歳でスリランカ独立の日を見ることなく、生涯を終えた。
「次に生まれるときには日本に生まれたい」とよく話していた
という。

■6.皇太子のお召し艦を一目見ようと胸を弾ませて港に赴いた少年■

 1921(大正10)年3月、日本の巡洋艦『香取』がスリランカ
を訪れた。当時、皇太子であった昭和天皇をお乗せして、ヨー
ロッパに向かう途上であった。

 皇太子のお召し艦を一目見ようと港に集まった人々の中に、
一人の少年がいた。15歳のジャヤワルダナであった。

 ジャヤワルダナは、昭和54(1979)年、国賓として来日した
際に、宮中の歓迎晩餐会にて次のように語っている。[1,p82]

 外国の統治の下では、人々の信仰や言葉、慣習などはほ
とんど消え去りそうになっていました。

 このことから、私達だけではなく、西欧の帝国主義の下
で同じような運命によって苦しんでいる全てのアジアの国
民達は日本を称賛し、尊敬していたのです。先の80年の
間、日本はアジアにおいて独立国として立ち上がっていた
のです。

 西欧の列強が、その軍事力と貿易力によって世界を支配
していた時に、あなた達は彼等と競い、匹敵し、時には打
ち負かしていました。

 陛下が1920年代に皇太子としてスリランカを訪れた
際には、私は気持ちを高ぶらせて陛下が乗船されている艦
を一目見ようと港に行ったものでした。

 当時の日本は、日英同盟のもと、第一次大戦をイギリスと共
に戦って勝利し、世界の強国として頭角を現しつつあった。自
分たちと同じアジア民族で、かつ共に仏教を信奉する日本の皇
太子が、自国の巡洋艦で対等の同盟国であるイギリスに赴くと
いう出来事は、「自分たちもいつかは独立を」という希望をス
リランカの人々に抱かせたに違いない。

■7.「インドとスリランカにいる兄弟・姉妹に呼びかけます」■

 1932(昭和7)年にコロンボに生まれ、スリランカ独立後に海
軍兵学校部隊長となったソマシリ・デヴェンドラ氏は、次のよ
うに語っている。

 1941年に日本が真珠湾を攻撃し、第2次大戦に参戦した
時には、スリランカ人は日本に対してある種の同情を寄せ
ていました。・・・

 1942年の初め、強力な日本海軍はインド洋上の敵艦をど
んどんと破壊していき、スリランカ島に向かっていきまし
た。しかし、その時にスリランカに停泊していたイギリス
軍艦の多くは第一次世界大戦当時に造られた古いものばか
りでした。

 4月、日本海軍の航空隊はスリランカの都市を空襲し、
それらの軍艦に攻撃をしかけてきました。この航空隊は真
珠湾攻撃に参加した後にやって来た隊でした。日本軍の爆
撃の命中率は世界で最も正確だったと言われています。

 この空襲の際に、3人が乗った日本軍の攻撃機1機が墜落し
た。コロンボのカテッナ市営墓地には、墜落死した日本兵の墓
が造られている。

 日本軍はシンガポールを占領した後、投降したインド兵を集
めて、インドの独立を目指すインド国民軍を組織させた。その
中にはスリランカ人の部隊もあった。

 インド国民軍はシンガポールからインドやスリランカに向かっ
て「ラジオ昭南(シンガポール)と呼ばれるラジオ放送を行っ
た。

 当時12歳だったデヴェンドラ氏は、このラジオ放送をよく
聞いていた。「こちらはラジオ昭南、インドとスリランカにい
る兄弟・姉妹に呼びかけます」という言葉で始まり、「ワン
・デイ・マータラ」という、今でもインドでよく知られている
インド国民軍の歌を流した。

 アメリカの情報機関は、このようなインド向けの放送が、イ
ンド人の心理に与えた影響は非常に大きかったとしている。

■8.「私達は日本に、このことを感謝しなければなりません」■

 日本が敗戦した日は「Victory over Japan Day(対日勝利の
日)」と呼ばれ、大きな都市では記念式典が開かれた。デヴェ
ンドラ氏が住んでいたラトゥナプラでも式典が開かれ、イギリ
ス側代表の後で、氏の父親がスリランカ側を代表して演説を行っ
た。

 この日は、私達が日本に対する勝利を祝うものです。し
かし、私達は日本によって得られたものがあります。それ
は愛国心という心でした。それは、日本によって全てのア
ジアの国々にもたらされたのでした。

 戦争によってアジアの国々、インドネシアやインド、ス
リランカ、ビルマなどは自らに対する自信と民族主義の意
識を得たのです。私達は日本に、このことを感謝しなけれ
ばなりません。

「対日勝利の日」に、英国側の前で、日本に感謝する演説を行
うとは、まことに大胆な言動である。それだけ強い気持ちが籠
もっていたのだろう。

 1948年2月4日、スリランカは独立を果たした。日本が設立
を支援したインド国民軍の指導者たちをイギリスが「反逆者」
として軍事裁判にかけようとした事に対して、インド全土に暴
動、ストライキが広まり、それがきっかけとなってインドは独
立を勝ち得た。それとともに、イギリスはスリランカからも撤
退したのである。

 昭和天皇のお召し艦を一目見ようと港に駆けつけた少年ジャ
ヤワルダナが、独立政府の要職についていた。そしてサンフラ
ンシスコ講和会議で日本を擁護する演説をすることになる。

 日本は明治以降、スリランカの人々の独立への希望に灯を点
してきたのだが、今度はそのスリランカが日本の独立を助けて
くれたのである。
(文責:伊勢雅臣)


(コメント)
以前、NHKの番組『その時、歴史が動いた』で、サンフランシスコ講和条約の際の、東南アジア諸国の日本擁護の演説が、見事に日本批判の演説として解説されていたことがある。戦後、日本人はマスコミを始めとする反日勢力に、いいように嘘の歴史を刷り込まれてきたが、大東亜戦争が無ければ、未だに大部分の有色人種が奴隷同然の身分だったことは間違いなく、我々の祖先は有色人種の白人支配からの解放という、有史以来の大革命を成し遂げた、人類史に残る英雄といってもあながち間違いではないと考えている。

日本が大東亜戦争に突入したのは、アメリカを始めとする白人列強国家の罠に嵌ったのが直接の原因だったが、戦略的に勝ち目のなかった日本は、律儀にアジア解放の理想を掲げ、戦いには負けはしたものの、奮戦の末、その理想は見事に実現させたわけである。もし世界に日本が無かったならば、と考えてみれば、そこには白人が有色人種を支配し、家畜のように詐取する地獄のような世界しか想像出来ないだろう。

過去400~500年の世界史を検証すれば、大東亜戦争での日本の正しさは揺らぐことがないのだが、連合国は極東軍事裁判を利用して、自分達が今まで被っていた悪の仮面を日本に被せ、日本が被っていた善の仮面を自分達で被ってしまった。日本人は自分達が正しいのにも関わらず悪だと思い込み、連合国の人間は自分達が悪なのに正義だと信じ込んでいるのである。善の仮面を外せば醜い本性が現れてしまうので、連合国は武力や策略を使ってでも日本を黙らせておきたいのだろう。

日本が黙っている間に、大量移民などで合法的に日本を滅ぼしてしまえば尚良いと考えているのではないだろうか。大量移民が無理でも、マスコミや教育を利用して社会や国を弱体化させ、日本人を愚民化して牙を抜いてしまえば、軍事的に制圧することは容易くなる。米軍の庇護下で太った豚が、ある日突然、野山に放たれ、中国という虎に献上された時、豚にはもはや虎の餌以外の選択肢がないのが現実である。せめて今のちに豚から猪くらいにはしておかないと、本当にチベットの二の舞になりかねないだろう。

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